をなす重要な部分ではあるまいかと考える。日本の文芸批評は、十年ほど前に鑑賞批評、印象批評から発展して、漸々《ようよう》社会的文学的にある客観的な意義をもった評価を試る段階にまで達した。その推進の役割を演じたものとしてプロレタリア文学の努力は、単にその文学のためのみならず日本の文学全体としての成育のために、いつの時代になっても無視することの出来ない意味をもっている。しかしながら、この文学作品評価の基準の問題は、夥しい論議と自身の未成熟のうちに端初的な数歩を踏みだしたばかりで、以来、文学原理の課題として正当な発展はさせられないでいた。この文学評論の著者は、第二篇の「内容と形式の問題」「文学史と批評の方法」とで、主としてこの極めて大切であって同時にいろいろの偏見にとりかこまれがちな文学の価値の問題を明らかにしようとしているのである。蔵原惟人の芸術論のなかではまだ筆者自身にとって曖昧にしかとらえられていなかった芸術性というものをも、文学原理として、ここで初めてはっきり会得出来るものとして解明されている。「文学史と批評の方法」で、著者は過去の理解が、現実の歴史との関係で文学史を静的なものとし、批
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