「破戒」を書きつづけて行った藤村の心の底には、そのような野暮を敢てする芸術家としての時代への意識があったわけで、その意識は、創作の現実としては作品のテーマとその表現方法への確信として自覚されていたのだと思われる。時代に対する作家の意識は、世相への投合としてあらわれるよりも、常に、世相のよって来る時代の性格に対して示される作家の文学的な態度としてあらわれるのは意味ふかいところだと思う。
世相的、風俗的作品として、あれこれの小説が時代のただの反射として書かれていたとき、藤村は水面の波としてあらわれるそれ等の現象の底まで身を沈めて、日本のその時代を一貫する流のなかにあった寒流・暖流の交錯の悲劇にまでふれようと試みたのであったと考えられる。時代への意識というものが少くとも文学との関係でとりあげられる限りは、刻下の題材を書くか書かぬかという現象のもう一歩奥に歩み入って、それが何故どのように書かれたか、或は書かれなかったかという点にまで迫って観察し、考えられなければならないものだろう。
だから、藤村の「破戒」の場合にしろ、当時における日本の作家の時代意識について理解しようとすれば、一方に、ごく
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