作家と教養の諸相
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)只|岐《わか》れたという
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(例)[#地付き]〔一九四〇年五月〕
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作家にとって教養というものは、どんな関係にあるのだろうか。これまでのいろいろの時代に、作家と教養のことが云われたのであったが、それぞれにその時代の文学的趨勢とでも云うべきものを、何かの形で反映していることは、今日私たちを考えさせるところだと思う。
徳川時代というものの中で眺める馬琴というような作家は、同時代の庶民的情調に立つ軟文学の気風に対して、教養派のくみであったろうが、馬琴の芸術家としての教養の実体はモラルとしての儒教に支那伝奇小説の翻案的架空性を加えたものが本道をなしていたと思える。その意味で作家馬琴の所謂教養はつまらなくもあるけれども、今日の私たちに興味を抱かせる点は、官学派のようなこの作家も時代の活きた脈動には自ずとつきうごかされるところがあって、当時の諸国往来の風俗・俚謡・伝説などにつよい関心を示しているところは面白い。伝統的な士道の末期的な教養は一面で馬琴の世界に勧善懲悪の善玉悪玉をつくり出しているとともに、他の半面では既に封建の石垣がくずれようとしている現実的な力に浸潤され、より現実の市民常識への拡大が行われているのである。
明治の初期の文学では、江戸末期の戯作者風な作者と黎明期の啓蒙書・翻訳文学が対立したが、尾崎紅葉の硯友社時代には、仏文学の影響やロシア文学の影響をもちながら、作家気質の伝統は戯作者気質の筋をひいていた。坪内逍遙の「当世書生気質」は、日本の近代文学の第一歩の導きとなって彼の近代小説論「小説神髄」の創作的実験であったが、その作品の世界は書生という姿に於て踏襲されている昔ながらの遊蕩の世界であり、その遊蕩というものに対する作者の態度も、戯作者的現実追随の域を脱していなかった。
こういう時代に、二葉亭四迷がロシア文学の教養から、人生における男女の自我の対立や個性と通俗のしきたりとの摩擦をとりあげたことは、まことに驚くべきことであったと思う。二葉亭の、当時の日本文学の通念より前進しすぎていた人生的教養は、逆に彼に文学は男子一生の事業に価するものかどうかという懐疑に陥れている。このことも、私たちに少なからず暗示するところがあると思う。
硯友社の文学的傾向に対して、作家は昔の戯作者に非ずとして、人生的な教養の必要を強調したのは、当時の内田魯庵その他|所謂《いわゆる》人生派の論客たちであった。
自然主義文学の動きは、硯友社的美文で造り上げられた現実を文学から追放して、もっとむき出しの、教養以前或は七重の教養を八重に引剥いだその底の人間性と真正面から取組もうとした、一応の教養を否定する教養に立っておこったわけであった。
ところが、日本の近代文学の血脈は、自然主義を生んだフランスの思想と文学の伝統とはまるきりちがっていて、フランスの有識人が代々を経て来た啓蒙時代、唯物論時代を経ていない。同じ自然主義の流れも、日本の生活の現実の土壤をうるおして結んだ実は、既成の教養を否定するに足る新たな文化力としての鋭き現実的な教養ではなかった。日本の市民一般のおかれていた教養の低い水準のままに作家の内的世界も肯定された形をとらざるを得なかったと見られる。
夏目漱石の文学、森鴎外の文学及び、漱石系統の帝大などを出た新しい作家たちの作品が、知識人の間に広く反響をもったのは、一方に自然主義の傾向をもった文学の、桶を桶というに止ったような真実性への反撥であったと思えるのである。
しかしながら、夏目漱石にしろ森鴎外にしろ、何と日本の明治時代そのものの文化的混淆を大きくその生涯に照りかえしていることだろう。漱石のイギリス文学の教養、支那文学の教養は、二つながら他の追随を許さぬ程度であったらしいが、彼の作品は、決してこの二つの教養の源泉からだけは生れていない。明治元年に生れた日本の男という、その時代が彼にたたきこんだ封建のぬけきらない、儒教の重しがのき切らない一生活人の脈搏が漱石の全作品を貫いて苦しく打っているのが感じられる。男対女の相剋を、漱石は「兄」などの中にあれほど執拗に追究していながら、問題は常に女という一般の性に向っての疑いとして出されていて、結婚の習慣のありよう、家庭という観念の内容については、不思議なほどふれられていない。男女の相剋を自我の相剋として見る面で漱石の西欧的教養は大きい創造のモメントをなしているのであるが、漱石が我ともなく昔ながらの常識に妥協している面では、そのような男女の相剋をもたらす日本的現実の条件の追究を
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