。その一個たりとも無駄に破壊されることに対して冷淡であり得ない。人間の生みてである女の奥にひそむ母性の感情の深い根はそこにある。現実は、しかし、望むと望まないにかかわらず、ある時の義務としてその生命を捨てることを必要とする。一つの人間の命の最大能力を発揮する必要が、ある場合の結果として一人の人間を何の華々しささえない死へ無言で入らせる。
銃後に漲る英雄的《ヒロイック》な気分の何割かが、避けがたい必要に求められて生命の危険を賭しつつある若い男、あるいは中年の男たちの感情へまで切実に迫って行っているであろうか。
ある気分に煽られている自分の心持に知らず知らず乗っていて、しかもその浅い亢奮のために現実の生活のあらゆる面にその裂けめを出している矛盾にさえ眼がつかず、「勝たずば生きてかえらじ」と、鳴る太鼓の音を空にきき流しつつ、軍国調モードを、どんなにシークにステープルファイバアからつくり出そうかと思案しているのが、今日の若い女のその日ぐらしの姿であるとしたら、若い婦人たちの誰が、その愚劣な一人として自分を描かれることに承知しよう。
女性の真の人間らしさ、やさしさ、敏感さは、今日かえって、憤りの中にあらわれるかもしれないのである。自分は飽食し、安穏に良人と召使とにかしずかれ、眉をかいた細君が、一種の自己陶酔の中で高々とうたい上げる祝詞《のりと》のような皇軍の歌のかげに、生きて、食っているもののいいようのない脂のこさ、残酷さを感じる心は、決して銃後の女のまじめさと心やさしさに反するものではない。
女のやさしさというものも、愛の感情がそうであるとおり、抽象的なものではなく現実の内容を持ったものである。日本の女がこれまでの社会の歴史から負わされているさまざまの微妙な荷は、きょう決して雲散霧消しているのではない。そのものはあるいは新聞紙上によみがえり闊歩している徳川時代の形容詞とともに、かえって強まっているかもしれない。ある役所にタイピストが十何人か働いていた。戦争と共に、戦争に関係のふかいその役所では仕事が非常にいそがしくなって来た。それと同時に、この非常時に女が洋装をしていることは望ましくない。和服で通勤せよ、ということになった。それは真夏のことであった。タイピストたちは、今年はことに激しかった猛暑の中で大汗になり、袂を肩へかつぎあげて、残業で働いている。そういう話をきい
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