語のままにして行った方がよかろうと思う。
先ず本国の愛蘭《アイルランド》より却って米国に於て早く認められて今は一部の偶像のように成っている Lord Dunsany に就て書こう。彼の経歴は厨川白村[#「厨川白村」に傍点]氏の印象記の中に委しく書かれているからやめて作品に移る。
彼は全く白村[#「白村」に傍点]氏の書かれた通り新しい浪漫主義者であろう。故国の政治的状態に就て話そうとはせずに、昔ながらの伝説と神秘の詩に抱かれながら、「今」を超えて生活をする愛蘭農民の永遠を語るのが彼である。彼の素晴らしい空想は、何時でもすきな時に私共を引攫って驚異の国の神、悪魔に、スフィンクスに引合わせる。彼の二重瞼の大きな眼は明るい太陽の真下でも、体中に油を塗りつけた宝玉商の Thengobrind が「死人のダイヤモンド」を盗もうとして耳のような眼玉を輝かせた蜘蛛の魔物の膝元に忍び寄る姿を見るだろう。
真個に彼は、奇怪な美を持っている。彼の書く寓話は地上のものではないようにさえ見えるのである。
けれども、其なら彼はその耽美の塔に立て籠って、夕栄の雲のような夢幻に陶酔していると云うのだろうか、私は単純に、夢の宮殿を捧げて仕舞えない心持がする。夢で美を見るのと、醒めて美を見ると違うのに彼はおきているのだ。起きていて、心が彼方まで貫いているのだと思う。其は彼の作に漲っている深い力強い意向を考えれば解るのだろうと思う。彼の空想の豊饒さの裡には、蒼ざめた果敢《はか》なさや、愚痴や只甘い歎息は左様ならを云われている。
Lord Dunsany に次で、現今米国の知識階級に悦ばれているのは、John Galsworthy や H. G. Wells などであろう。
二人はまるで異った傾向を持っているらしい。誰でも知っている通り H.G.Wells は科学小説とでも云うべきものを独特な天地にしているに対して、Galsworthy の方は、面倒な理屈は抜きで、読む者をどしどしと惹つけて行くような筆致を持っている。H. G. Wells は知らない、が Galsworthy は、彼の体付の通り、どちらかと云うと、細づくりな、輪廓の柔かい、上品と落付きと一種の物懶さをまぜたような気分を持っているような心持がする。余り沢山読んでいないので分らないけれども、一寸した短篇ながら、“The Ju
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