砂遊場からの同志
――ソヴェト同盟の共学について――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)托児所《ヤースリ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|退《ひ》けて来た
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]
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托児所《ヤースリ》からはじまる
モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]はクレムリとモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]河とをかこんで環状にひろがった都会だ。
内側の並木道《ブリ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ール》と外側の並木道と二かわの古い菩提樹並木が市街をとりまき、鉱夫の帽子についている照明燈みたいな※[#丸A大文字、122−6]※[#丸B大文字、122−6]と円い標《しるし》を屋根につけた電車が、冬は真白く氷花に覆われた並木道に青いスパークを散らしながら走る。
夕方、五時というと冬のモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ではもう宵だ。アーク燈が凍った並木道の上にともる。この刻限並木道は勤めがえりの通行人で一杯だ。
鞁鳥打帽の下で外套の襟を深く立て、物がつまりすぎてパチンも満足にかからない書類入鞄を小脇にかかえ、わき目もふらずポケットへ手をつっこんで歩いて行く男や女――これは至極ありふれた文明国の恰好だ。が、ひとつ目につく情景がある。いかにも役所や工場から今|退《ひ》けて来たという風情の男が、又は女が、自分の後《うしろ》へ橇にのっかった小さい子供をひっぱり、何か楽しそうにその子と喋ったり笑ったりしながら、ゆっくり人出の間をやって来る。
それが決して、一組や二組のことじゃあない。並木道がひろくなって、片隅に子供たちの橇遊び場が出来ているようなところへ来かかろうものなら、子供等がおふくろ[#「おふくろ」に傍点]や父親を素通りはさせない。親は押し役だ。子供たちは歓声をあげ、アーク燈と凍った雪の上で仔熊のようにころがりまわる。親たちは、小脇に勤め先からもってかえった書類入鞄をはさみながら、やっぱり同じように陽気な顔つきで立って、お伴をつとめている。――
これこそ、独特なソヴェト同盟風景だ。親子は托児所からの帰りなのだ。
産業別労働組合が共同資本で建てている新しい共同住宅には、きっとその第一階に托児所がある。けれども元からある家のどれにも托児所が附属しているとはきまっていないから、工場へつとめる夫婦は小さい子を工場の托児所へ、役所勤めの男女は区の托児所へ、いずれも朝勤めに出しなに、抱いたり手をひいたりして連れて行く。
八時間働いて退けしなに親たちは托児所へより、それからめいめいの坊やと帰途を充分楽しみながら家へかえってさて夕飯ということになっているのだ。
話の例としてひとつ「赤い糸紡織工場」の托児所をのぞいて見よう。(ここには七百人からの婦人労働者がいる。)
工場を出て、鋪道を半丁ほど来ると、ロシアらしい木の柵にかこまれ、白樺が庭に生えた煉瓦だての小ざっぱりした建物がある。
トントンとのぼる石段の入口が二つある。一つには「乳児入口」、もう一つには「学齢以前児童」と札が出ている。
入って行くと、白い上っぱりを着て、頭も白い布《プラトーク》でつつんだ姆母さんが出て来る。お客にも白い上っぱりを着せ、それから始めて内部を案内してくれる。托児所はキット一人の小児科医と数人の姆母さんと炊事掃除がかりとで構成されている。
連れて来た赤坊たちは、まず第一の室ですっかり着ているものをぬがされ、互にまだ性別のない体をあどけなく眺めあいながら、体重を計られ、検温され、やがてすっかり托児所そなえつけの衣服をきせられる。
赤坊たちは、未来の闘士も婦人技術家もズラリと並んだ白い小さい寝台におさまり、夏なら白樺の木かげで、臍まで日光浴をしながら、三時間おきに、二十分間ずつ乳をのませに職場からやって来るおふくろ[#「おふくろ」に傍点]の胸に熱烈な生活力で吸いつくというわけだ。
学齢前の子供たちの室は、なかなか見ものだ。
床から二尺というところに手拭、歯ブラシ、アルミニュームのコップがキチンとぶら下っている。が、どれが金毛のイ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ンので、どれがみそっぱのターシャのかという区別をつけるために、それぞれの釘の上へ一枚ずつ絵がはりつけてある。
猫。犬。鶏。牛の家畜類から、ロシアではみんなその種《たね》を食う向日葵の大きい黄色い花。飛行機、汽車、電車に自動車までがかかれ、小さい男女の子供は自分のこのみで、自分の絵をきめる。
「僕、これ!」
「あたち、これよ、ね!」
必ずしも、男の子は汽車で女の子は向日葵とは先生の方から大人の類型できめてくれるのではない。
字のかわりに絵が当分は規則の合いじるしだ。
五つ、六つの組では、もうそろそろソヴェト市民の自治がはじまる。――組の当番が出来て、たとえば食事前手を洗う。それを本当にチャンと洗ったか洗わないか、姆母さんだけが一人一人つらまえて「さあ見せて御覧なさい」とばかりは云わない。
「さあ、子供たち、手を洗って御飯ですよ!」
ドッと手洗場へ、めいめいの手拭いをもってかけつける。
「洗えましたか? 当番さん、見てやって頂戴!」
一列にみんな並んで、しかつめらしい当番の前へ両手をさしのばしながら順ぐり通りすぎる。当番のアーニャ自身、どれがキレイで、どれがキタナイか、こうして又見わけかたを覚えようというものだ。
そのほか、植木の世話をする(水をやること)当番、みんなで飼っている鮒《ふな》の世話をする当番、男の子、女の子の区別はない。
お昼は托児所の台所でこしらえた温いスープとか粥とか、牛乳その他をたべるのだが、六つぐらいの組は、食堂のテーブルへスプーンを並べたり、アルミニュームの鉢を並べたりする役もするようになる。
小学校では――
一つ机に男の子と女の子とが並んで勉強する。
われわれの小学校は大体背丈の順で並んだが、ソヴェト同盟の小学校では、一つ机を二人でつかう時には、学期のはじめ教師が自由に一緒に坐る対手をきめさせる。
「ミーシャ、また一緒に坐ろうね」
「ウン」
だが、教師オリガは、先学期もミーシャとダーシャが並んでいたのを知っている。そこで
「ダーシャ、こんどは暫くグレゴリーと並んで見ないかい? ミーシャと並びたがってたナターシャと代っちゃどうだい?」
ダーシャは一寸ふくれて、ジロリとミーシャの方を眺めるが、ミーシャはぼんやり鼻の穴をふくらがして鉛筆を削っている。そこで、ダーシャは渋々ながら
「じゃそうします」
馴れて見ればグレゴリーだってミーシャよりいやだっていうこともないのがダーシャにわかる。数日たって教師が
「ダーシャ、座の心地はどう?」
ときくと、ダーシャはませた表情で
「|何ともありません《ニーチェヴォ》」
「そりゃよかったね!」
然し、こんなこともある。
几帳面で、級の衛生委員をやっているアリョーシャが、いつまでも机の横へつったってニーナと口論しつづけている。
「やだヨ! お前となんか坐るもんか! いつだって机ん中ゴシャゴシャにしとる奴! この前級の赤いクレイオンがなくなったのだって、誰がわるいんだ? お前だよ! お前がゴチャゴチャの中へころがしこんで、散々さがして、われわれみんなになくちゃならない赤クレイオンを三つに折っちゃったんだ」
「じゃ、どう? お前はどう? この前博物のときいる鼠を逃がしちゃったのは誰ヨ! 放っといておくれ! 知ってるのは悪口ばっかりだ!」
「どっちが! 知ってるか? お前みたいなのがムジカクな娘ってんだ」
ニーナは真赤になって涙を出しはじめる。仲裁がいる。
「子供たち! ニーナとアリョーシャがこういう始末で口論しているが、どうしたらいいと思う? 別々に坐らせようか? それとも一緒に坐った方がいいと思うか?」
そこで級の大衆討論だ。隅で苦々しげに
「いつだって騒動おっぱじめる原因は女の子だ!」
と、しかめっ面してイフゲニーが机に頬杖をついている。
討論は到頭男の子と女の子と、どっちが規律正しい生活が出来るか、ソヴェト権力はどんなにプロレタリアートの自覚ある規則を必要とするかというところまで進展し、ニーナ対アリョーシャの問題はこう決定する。
「ニーナが机の中をいつもひっ散らかしておくのは確にわるい。ソヴェトの子供として恥ずべきことだ。直ぐ自己批判して、直さなければいけない。然しアリョーシャが悪体だけついて、それを教えたり手伝ったりしてやらないのも悪い。ボリシェビキ的でない。だから、ここ暫くアリョーシャはニーナの指導者として並んで坐り、ニーナはよく注意して癖を直してから、みんなが彼女とよろこんで並ぼう。」
ソヴェト同盟の学校は、アメリカ人のスコット・ニアリングが感服してその本の中に書いているほど、小学校から大学まで学生の自治組織が発達している。
〇《ゼロ》年生(満七歳以前の子供の級)から、級の中には衛生委員、日々の食事当番がある。幼稚園、托児所時代から仕事はすすんで、当番は自分たちのたべたあとのアルミニューム鉢やスプーンを洗い、それを食器室まで運ぶ役目をやる。
教室の掃除もする。男の子だから食事に関する仕事はしないなどということは絶対にない。
夏、共産少年少女《ピオニェール》の野営地を訪問すると、赤い旗が翻る愉快な日かげで、男の子女の子とりまぜの炊事当番が、ジャガ薯の皮むきをやっている光景によくぶつかる。
学年が進むと、級の日常生活は男女生徒の衛生委員、経済委員、学務委員、社会活動委員の活動によって実質的に進められてゆくようになるのだ。
だが、ここに微妙な現象が、学級の進むにつれて(ソヴェト同盟では小学校が初等学校四年制、あと七年制、九年制とある。)起って来る。
級の小さい頃は漠然と仲よしで一組になっていた男の子と女の子とが七年生(十三、四歳)ぐらいになると、一種の発展的分化をおこす。
小学校の退けどき、賑やかな一団にまぎれ込んで歩いて見ると、小さい級の子供は男の子も女の子もゴチャゴチャだ。冬、むっくり着ぶくれて、頬っぺたまで包む帽子をかぶっているところは女の子も男の子も見境いがつかない。チーチーパッパでやって行くが、上級の子は、女の子は大抵の女の子とつれ立ち、男の子は男の子とつれ立っている。ペーヴメントから溢れるほど大勢で威勢よくのして来る一群には、数人の男の子、女の子入れまじりだ。男の子、女の子と一組だけ組んでいる場合は少い。
自然の性的自覚が、ソヴェト同盟の少年少女の間にでもこの微妙な現象をおこすのだ。
ブルジョア教育では、姑息に人生のこの興味ある時期をとり扱っている。互に性的自覚がおこる時機に、共学はやめられる。そして、数多の無智と愚劣な悲劇を起すブルジョア的性別誇張第一頁がはじまる。
ソヴェト同盟では、共学は共働という社会主義的見地から、この時機は注意ぶかく、然し快活に次の時代へと進められるのだ。
特に、ピオニェールに組織されている少年少女にとって、この時代は未組織のものよりずっと社会主義的にいい条件で過ごせる。
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一九二六年の統計でもう古いがソヴェト同盟で四年制小学校における女児就学率を表で示すと
同じソヴェト同盟内でもブルジョア・ロシア時代の被圧迫少数民族のところでは、共学率が低い。
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国語別 第一年 第四年
都会 村 都会 村
ロシア 48.5 39.3 49.6 29.2
ウクライナ 49.3 41.8 43.8 18.6
白露 49.0 38.0 35.5 22.4
ポーランド 70.6 49.7 63.6 44.9
ドイツ 46.4 48.8
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