砂糖・健忘症
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)靡《なび》き
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)子供の生きてゆける場所[#「生きてゆける場所」に傍点]の
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年の暮れに珍しくお砂糖の配給があった。一人前三〇グラムを主食三三グラムとひきかえに、十匁を砂糖そのものの配給として配給され、久々であまいもののある正月を迎えた。お米とひきかえではねえ、と云いながら、砂糖を主食代りに配給されることについておこった主婦はなかった。
きょう新聞をみると、政府は主食代用を主な目的としてフィリッピンその他から砂糖を五十五万トン輸入することになったと出ている。
いまの東京の、疲労のはげしい毎日の生活で、疲れのやすまる甘いものがこうして段々ヤミでなくて一般の家庭にもゆきわたるだろうと思えば、暗い心持はしない。それにつけても、わたしたちは、戦時中のことを思い出さずにはいられない。人民生活に砂糖の消費が制限されるようになって来て、遂に全く砂糖なしになって来た頃、いろいろな栄養学者、医者たちは、あれほど口と筆との力をそろえて、砂糖が人体に及ぼす害について宣伝した。砂糖は骨格をよわくする。砂糖は血液を酸化させる。砂糖は人間を神経質にする。実に砂糖の害悪を強調した。一方、勤労動員されたすべての少年少女が、何よりほしがったのは甘いものだった。肉体をこきつかわれた疲れを、せめて甘いものでいやしたくて、「上品」だった筈の女学生たちは寄宿舎で、ぼた餅やあんころの話に羨望した。甘いものも食い放題だし、ということは、はっきり特攻隊や予科練へ若ものをひきつける条件の一つだった。
米代りの砂糖が配給され、フィリッピンからの砂糖の話をよむとき、わたしたちは、砂糖一つについても、あるべき社会的な責任というものについて、政府と、栄養専門家に答えて貰いたい心持がする。もし、あのとき、あんなに砂糖の害悪だけを主張したことが科学の真実なら、主食代りに砂糖をなめさせることは余りひとをばかにしたことではないだろうか。レールをとりかえる金さえないのに、害悪があるという砂糖を、何の義理で買いこまなくてはならないというのだろう。もしまた、適度の砂糖は人間の健康に必要なものであるから、というのならば、つい先頃まで砂糖の害だけを云いたてて、科学的に国民保健上最低の糖分の必要さえ示そうとしなかった政府と栄養専門家、医者たちの軍事的御用根性について、この際正直に反省してほしい。
平和な日本をうちたててゆくということは御都合主義で、あっちの風がふけばそう靡《なび》き、こっちの風がふけば、こうなびく無責任さでは実現されない。科学上の真実は、社会の実際にそれが変化してあらわれるからこそ、動かしがたい真実として存在しなければならない。砂糖の必要量がとれない条件があるからこそ、適量の必要が科学的に主張されなければならない。日本の主婦の科学精神がめざまされなければならないとしきりに云われる。科学の精神とは、決して食品のカロリー分析の能力ばかりをさしていない。砂糖を食品として科学的に理解するとともに、その砂糖が今日の社会で、どういうありかたをして来ているか、ということについて発見し、それをほんとに民族生活の幸福のために、合理的に調整してゆく実力も、明日の女性の人間叡智の内容となって行かなければならないと思う。
わたしの身辺に、子供を二人ぐらいもって戦争未亡人になっている婦人が、なんとどっさりあるだろう。先ずわたしの弟妹からはじまって。――平和になってから三年たって、これらの婦人と子供たちの生存の問題は、それぞれに深刻である。一年二年をどうやら経て来て三年めに、のっぴきならず、さし迫った経済困難、したがって母子の全存在の不安がある。昨今人々の耳目をゆるがしている牛込の産婆の嬰児殺しも、この未解決な社会問題にからんでいる。民主主義保育連盟が子供の生きてゆける場所[#「生きてゆける場所」に傍点]の建設について、具体的に動こうとしはじめていることの必然が、はっきりここに示されている。
暮から東京裁判はA級被告東條英機の公判に入った。ところがこの頃、わたしたちは、電車の中で折々どういう言葉をきくだろう。さすが東條だ、という声がある。えらい、と云われている声さえある。新聞は東條に再び人気が出たと書いている。これは、私たち婦人に息をのませるほどおろどくべき事実である。戦争責任追及の公判で、却って東條に人気が出たなどということは、ヨーロッパのどの国にもない例である。日本が負けたのだけがわるくて、戦争したことそのものはわるくなかったというような考えかたが復活し、通用するとしたら、今日生きることさえむずかしく苦しんでいる日本の数百万の父なき子と母とは、
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