農業である。これは日本の生産との関係から肯けることであり、その態度には「農業を風雅なものとか、辛苦の多いものとか甘い感傷の歌は殆どなく」「職業としての農業をつよく意識し」「自意識と批評精神から来る重く苦しいものが流れていて、これが正に農業を営んでいる人の心の端的だろうと思わせられる」
次に目につくのは小学教員、工場内で職工として働いている人の歌であり、これらの人々の歌には歌材として第三者への間接性があるにかかわらず勤労が必要としている日常の緊張から「間接を直接ならしめて、歌としては清新な、力強いものを生み出している」というのは、意味深い文学上の一つの客観的事実である。
官吏、軍人、画家、銀行・会社につとめている人々。更に料理人、理髪師、土工等あらゆる階級の人々にとっての文学表現の形式となり得ている、その様式の浸透を、窪田氏は超階級性と見ておられるのであるが、直ちに、作歌上からむずかしさのために過去の歌でさけられて来ている職業を取材したものの多いのは、現代の歌の特色を語るものであると認めていられることも面白く、歌は「その社会的な点に於て散文文芸に並び得るものだと云える感がする」と述べられてある。
そして、恋愛の歌の如何にも尠いこと、親として子を思う歌に父親としての歌の増大していること、又子が親を憐んで詠んでいる歌の多いことも、現代の実相をつたえる傾向としてあげられている。
次ぎに目に着くことは、幼い児を持っている若い妻の死を悲しむ歌が、いかに多いかということである。悲しみと困惑とに浸されている父親の歌は、意外に感ずるほどに多い。それに較べると、若くして夫を喪った妻の歌は少いものである。そういう事柄がなくはないであろうと思われるが、その種の歌は少い。
いたましいことであって、意外に感ぜずにはいられないほど多いのは、呼吸器病患者の歌である。不治を覚悟しての床上で詠んだ、複雑な、又徹底した、その人のその境地を外にしては詠めないと思われる歌が実に多い。
更にいたましいのは、全生病院の患者の歌である。中には、事と心と相伴って、沈痛な、深刻な、全く他には見られない歌がある。
文学がその本質としていかに現実を雄弁に語らざるを得ないものであるかという動かしがたい実例を、ここにも私たちは見るのである。
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(
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