会性とによって、忠実の一面を抹殺され勝な大衆髷物小説から、読者にただそれが歴史上の事実であるばかりでなく、社会的現実の錯綜の観かたまでを導き得る歴史小説を提供しようとしたのであった。
 その意図の限りで貴司氏の二三の作、藤森成吉氏の「渡辺崋山」等は注目されるべきであったが、プロレタリア作家の或るものは、必しも過去の現実へ追究をすすめてゆく要求は抱かず、文学上の諸問題のかかる紛糾が根にもっているところの更に大規模で複雑な社会矛盾の姿の裡へ一市民として生活的に浸透し、健全な発展の方向を有するヒューマニズムとその文学への道を見出そうと努力した。或は当時に至るまでの大衆生活の歴史の一部として自己の過去を見直そうとする意欲も文学の欲望となって、中野重治氏「第一章」「村の家」、窪川稲子氏「鉄屑の中」「一包の駄菓子」、窪川鶴次郎氏「一メンバー」、橋本英吉氏「炭坑」、中條百合子「乳房」、立野信之氏の長篇「流れ」等が現れた。
 当時の事情はこの一方諷刺文学、諷刺詩の欲求を生み、中野重治、壺井繁治、世田三郎、窪川鶴次郎その他諸氏によっていくつかの諷刺詩が発表された。『太鼓』は諷刺詩をのせて時代への太鼓として発刊された。
 獄中生活者を描いて出場した島木健作氏はこの時代、農民組合の経験をめぐっての諸作に移って来ており、徳永直氏は『文学評論』に自伝的な「黎明期」を連載しつつ、他方に「彷徨える女の手紙」「女の産地」等の小説を発表し、両者の間に見られる様々の矛盾によって、プロレタリア文学者へのいくつかの警告となったのであった。
 能動精神の提唱から派生した以上のような諸問題が、夥しい作家、評論家によって活溌に、然し堂々めぐりの形をもって論ぜられている一方、島崎藤村氏は七年に亙る労作「夜明け前」をこの年の秋に完成した。
「夜明け前」の持つ文学上の記念碑的価値は、日本のロマン主義時代の詩人として出発したこの作家が、自然主義の時代に小説の道にうつり、以来、幾星霜、社会生活と思想の波濤を凌いでここに到達した人生態度と文学的様式の、よかれあしかれこの作者としての統一完成の姿である。「夜明け前」は、維新という客観的な歴史を背景としつつ、決して客観的な歴史小説ではない。歴史を下から見たものの人生記録でもない。人生と人間の理想とその実現の努力に対する作者の感慨は主人公半蔵の悲喜と全く共にあり、氏一流の客観描写
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