は第一次の五ヵ年計画が終った社会を土台としており、日本では小林多喜二がこの翌年の二月に生命を失い、実に進歩的文化の全面に破壊的な困難が押しかかって来ている時であった。この事情の相異が、文学上のリアリズムの理解を日本においては様々に紛糾せしめる結果になった。プロレタリア文学団体が、過去の創作方法の弱点を理論的に客観的に究明する時間的ゆとり、人的条件を刻々失いつつある一方、各プロレタリア作家の日常的自由は激しく脅かされはじめていたので、新たな社会主義的リアリズムの提案は、それが他の国々で摂取され展開されたような過去の健全な進展としてよりも、日本では寧ろプロレタリア文学における小市民的要素のあるがままの状態での認容、インテリゲンツィアの技術上の優越というものの抽象的な再評価の要求によって歪んで受けいれられた。プロレタリア文学の分野にあった人々の或る部分は、新たなリアリズムの便宜的註解に拠って、従来のプロレタリア文学運動と対立し、その頃|流行《はや》った政治的偏向という言葉で批判しはじめたのである。
この時期に林房雄氏が出獄した。プロレタリア文学の仕事ではその誕生の時代から活動していた林氏は、出獄後、一つの大きい文壇的※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァキウムとなって、内外の事情の錯綜と微妙な日常感情、作家的志望の感情にからんでよりどころを見失ったような状態にあった旧プロレタリア作家を吸いあつめ、文芸復興の叫びをあげた。林氏は、第三者から見れば自身もその成生にはあずかっていたことを見忘れ得ないプロレタリア文学の存在を、否定しはじめた。プロレタリア文学がその本質としてもっている現実の認識、芸術評価の問題等を蹴ちらして、作家は何でも作品さえ書いておればいいのだ。書きたいように、書きたいものを、さあ書いた、書いた! という勢であった。このことは、多数の作家に気分的につよく影響した。過去の文学運動のプラスとマイナスとに対する慎重な反省から目を逸らさせ、真面目な再吟味の根気を失わせられたことは、それらの作家たちが過去において率直に傾け示した自身の努力、人間的善意の価値に自信を失わせる結果となり、従って、プロレタリア文学運動の高揚と退潮とに至る多岐な数年間の経験から、将来の作家的成長のために学びとるべき貴重な多くのものを、却って一種の自嘲、軽蔑をもってやりすごした憾《うら》みがあ
前へ
次へ
全45ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング