れていた「行動のヒューマニズム」を小松清氏の訳語に従って適用したものである。
 ヨーロッパ大戦後の文学を支配していた心理分析、潜在意識の生活を追究する唯心的な文学は、一九二九年のヨーロッパの大恐慌とその社会事情の変化によって別な人間生活の総体において表現しようと欲する文学運動に道を拓いた。一九三〇年頃からアメリカに於て新しきヒューマニズムの問題に関する最初の烽火がアーヴィング、バビット、ポオル等によってあげられた。フェルナンデスはその運動の影響をも受け、「行動のヒューマニズム」という標語を「言葉のデリケエトなニュアンスの上に」うち立てたのであった。
 フェルナンデスの云う「行動は人間の社会性を意味し、ヒューマニズムは個人の完成を意味する。」小松清氏の「行動主義理論」は更にフランスの行動主義文学の特殊な地位について左のように説明した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(A)行動主義は行動的瞬間における原始性と純粋性に重要な価値を見る。従ってその瞬間における統一性は直覚的な速度に感受されなければならない。即ち表現の上に叙述的な冗長は斥けられ、単純化はその必然的な方法となる。文学的行動主義が、造型芸術における野獣派、ピュリズム、プリミチヴィズム、シムルタニズム、表現主義或いは超現実主義の表現方法に多くの近似を見出すのはその故である。
(B)行動主義は創造的制作の上に立つものであるが故に、恒に制作がなさるる時代、もっと切実に云えばその瞬間が唯一の機会となり、第一条件となり、足場となる。そうしてこの一点にこそ大きな意欲の集中がある。
 (失うこと、発見にあとを譲るために失うこと……アポリネエル)
 かかるが故に、行動主義は間断なき前への飛躍の意味に於いて、あらゆるモダアニズムとモラルを同じくする。
(C)ヒューマニズムのモラルの上に立つ行動主義は、必然、個人主義である。しかしこの個人主義はエゴ中心的な※[#始め二重括弧、1−2−54]満足した自我※[#終わり二重括弧、1−2−55]のブルジョワ個人主義ではない。この個人主義は※[#始め二重括弧、1−2−54]自我の発展※[#終わり二重括弧、1−2−55]の希願の上に立ち、※[#始め二重括弧、1−2−54]モニュメンタルな我※[#終わり二重括弧、1−2−55]※[#始め二重括弧、1−2−54]コスミックな我※[#終
前へ 次へ
全45ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング