は不安に関する修辞学に終った。そして、文学の実際は他の一方で皮肉な容貌を呈して動いた。
 明治文学の再評価の機運があることや、不安の呼び声の裡に方向を失っている若手のスランプが刺戟となったりして、自然主義以来の老作家たちが、それぞれ手練の作品をひっさげ、数年の沈黙を破って再び出場して来たことである。島崎藤村は明治文学の記念碑的な作品「夜明け前」後篇を中央公論に連載しつつあった。永井荷風は往年の花柳小説を女給生活の描写にうつした「ひかげの花」をもって、谷崎潤一郎は「春琴抄」を、徳田秋声、上司小剣等の作家も久しぶりにそれぞれその人らしい作品を示した。そして当時「ひかげの花」に対して与えられた批評の性質こそ、多くの作家が陥っていた人生的態度並びに文学作品評価についての拠りどころなさ、無気力、焦慮を如実に反映したものであった。
 正宗白鳥が、「ひかげの花」を荷風の芸術境地としてそれなりに認め、「人生の落伍者の生活にもそれ相応の生存の楽しみが微にでもあることを自ら示している」ところの、人間の希望を描いた作品であると評したのは、白鳥の日頃からの人生観のしからしめるところと理解される。だが、盛にシェストフを云々し、不安を云々する人々、及び、文学の社会性を重大に視る立場にある人々の多数までが、この「ひかげの花」については、作者荷風の抱いている今日の人生への態度にまで触れて批評するのを野暮として、荷風の芸のうまさ[#「芸のうまさ」に傍点]、たたきこんだ芸が物をいうところを、無条件に買うべしという点に一致したことは、確に特徴的であった。
 知性の時代的な不安を云々する人々が、人間精神から鋭い不安をぬき去った荷風の芸術によって一層自分たちの不安を激しくされ、深められず、却ってうまさ[#「うまさ」に傍点]にすがって、職人的な作家の腕、文章道への関心の方向へと若い一部を流しやったことは注目に価する。荷風の人情本より歴史の上ではもっと古い句読点のない文章をもって「春琴抄」を書いた谷崎潤一郎は、大谷崎の名をもって呼ばれ、彼の文章読本が広くうり出された。しかし、その谷崎自身が、芸術家としての老いの自覚として、自分も年をとった故か昔のように客観描写の小説などを書くのが近頃面倒くさくなったと云っていることを、日本文学と作家生活とへの意味深い警告として心に聴き止めた人々は果して幾何あったであろうか。
 
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