今日の文学の鳥瞰図
宮本百合子
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(例)文芸懇話会賞等々|夥《おびただ》しい賞が懸けられ
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(例)[#地付き]〔一九三七年四月〕
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本年の建国祭を期して文化勲章というものが制定された。これは人も知る如く日本で始めてのことである。早速絵では竹内栖鳳や横山大観がその文化勲章を授与され、科学方面でも本多博士その他が比較的困難なく選ばれた。文学の分野に於ては、まだこの勲章を授与された作家がない。これは、非常に興味ある点であると思う。何故なら、どこの国でも文化のことが言われる場合、科学の方面と文学の面とは常に車の両輪のように考えられて来ているし、知識人の日常生活の文化を内容づけているものの比率から言っても、文学は重大な一半を占めているのであって、実際に即して見れば、今日の少なからぬ人々が、絵の展覧会は観にゆかないけれども、小説は読んでいるという状態でさえあるだろうと思う。現代の小説家に、果して絵画に於ける栖鳳や大観と比肩し得る作家が一人もいないと言い得るであろうか。例えば、島崎藤村、徳田秋声等は、日本の資本主義が勃興の途についたロマンチシズムの時代から、自然主義の時代、白樺等によって唱えられた人道主義の時代、更に社会の推進につれて生じた新たな階級の文学運動の開始等、明治から昭和に至る日本文化の縦走をその一身の芸術のかげに偲ばせる現代の古典として評価すべき作家である。これらの作家を、栖鳳の貰った文化勲章に価しない芸術家であると言うことの方が寧ろ困難である。作家には文化勲章が与えられず、日本歴史の研究その他で知られている徳富蘇峰氏等の名が候補者として噂にのぼっているのはどう言う訳であろうか。
ここに文学そのものの、特に小説というものの本質の問題が横《よこた》わっていると思われるのである。文学の創作が現実を反映すると言うこと、作家の人間的な全面がおのずからそこに露出しているということ、しかも芸術家である人々は、それぞれの時代や自身の制約の中にありながらも比較的常に敏感に自分と周囲との人間生活を観察しているので、小説は傑出したものであればあるほど謂わば人間臭さが強い。栖鳳が人間臭い生活はそれとしてやって、画布に向った時は一種の芸術的境地とも言うべき雰囲気の中に入って花だの蛙だの鹿だのというものを画いてゆくのと、例えば藤村、秋声の作品とは大いに違ったところがある。日本画家が今日尚住んでいることの出来る風韻の世界を、日本文学は既に四五十年以前失っているのである。
文学作品が現実を語るという本質から、今日、日本の文化勲章が簡単に作家に与えられないという事情は、文学の側から言えば名誉であろうとも、不名誉であることは決してないのである。
文学作品の本質は、この文化勲章の場合のように文学と当代の文化政策との関係の中に反映されるばかりでなく、小説が現実を反映し自然また現実へも照り返してゆく本質を持っているということは、文学自体の発展の問題の中にも、歴史の一定の時期には微妙な作用をもって現れて来る。今日文学は前代にない動揺を経験しつつある。かつても文学の流派と流派との間の論争や衝突は日本の文学に於ても激しいものがなくはなかった。しかし、それらの時期に文学に従事していた人々は、いずれも根本に於ては文学そのものの人間生活に於ける価値に確信を持っていたのであるし、その確信の上に立って自分の主張する文学の流派の存在意義を押し出していたのであった。プロレタリア文学運動とブルジョア文学との関係では、プロレタリア文学というものが一つの流派ではなく、本質に於てブルジョア文学の批判的発展者として登場して来たので、この両者の関係でブルジョア文学は初めて自身の理解して来た範囲での文学と言うものを先ずその価値評価の基準から動揺を受けたのであった。
それでも、両者の或る点での対立を含みつつ、文学全体としての文化の面に於ける存在の確固性というものは明瞭に意識されていた。ある人は文学のためにプロレタリア文学運動等というものは「花園を荒すものである」と思っていたであろうし、反対に、文学のためにこそ行くべき道はプロレタリア文学であるという風に考えた人もあったのであった。
今日私たちの見る文学の貧困の事情は全く以上のものと性質を異にしている。即ち、文学に従う人々の間に文学そのものの意義や価値を疑う傾向が生じており、そのことは文学を文学以外の現勢力に従属させることで、作家の日々の存在を安定せしめようとする傾向をも引き起して来ている。このことと現代のインテリゲンツィアの社会的・文化的存在の自信の欠乏と見通しの欠如とは切り離せない関係に置かれている。
私は、この文章の中で今日の文学の現実の姿を粗描し、文学以外の専門に従事する人々のためにも今日の文学的討論や作品の健全な理解に役立ちたいと思う。
昨今林房雄、小林秀雄、河上徹太郎その他の作家・評論家によって、今日の大衆が文学的関心を失っているという点が注目されている。この頃の普通人はどうも小説――純文学の作品に対して興味を失っている。大衆小説は読んでも、真面目な小説は読まなくなって来ている。この対策として、作家が文学青年を目あてにして書いたような過去の「私小説」をやめ、大いに社会性のある、大衆にとっても面白い小説を書かねばならないという意見が出されている。林房雄氏はその具体案として「大人の文学」を提案し、真面目な作家は現代の官吏、軍人、実業家の中心問題とするところを文壇の中心問題として、二年でも三年でも根気よくそれを繰り返すべきであると言っているのである。
評論家谷川徹三氏は、現代の日本では大衆の持っている文化水準と一部の作家が持っている文化水準とはひどく懸隔している。そこに文学が大衆の生活との繋りを失う原因があるのであるから、新しい文学の方向としては、この両者の距離を埋めるような均衡を見出してゆくようなものが求められると言っている。
作家武田麟太郎氏は、日本文学の庶民性を主張しつつある作家である。日本の文学は庶民の生活の中から生れたものであるとし、現代作家の任務は現代の庶民の生活にとけ込んでその朝夕のいとなみとその涙と笑いとをあるがままに描き徹することに於て庶民の生きるべき方向と道とが自ら示されるという見解である。『人民文庫』の人々の作品に共通な風俗描写の根柢にはこういう大衆というものの見方が横わっている次第である。徳川時代の文学作品のあるものは、一種の町人文学として当時の官学流の硬い文学、経綸文学に対立し、庶民の日暮しの胸算用、常識を鋭く見て、例えば西鶴等はその方面の卓抜なチャンピオンであった。しかし、日本文学全体の歴史を通じて庶民の文学であるというのは明らかな無理である。王朝時代の記録は、文学の優れた作家の生涯についてさえ、その人々が高貴な御方でなければ詳述していない。紫式部の伝記を満足するように書けない原因は、この当時の記録のないことである。林房雄氏等は日本のロマンチストとして「抽象的な情熱」に従って王朝文学を読むと言っているのであるが、王朝の文学に当時の民衆は何と描かれているであろうか。「もののあわれ」を知るみやびやかな上流人に対して「むくつけき賤山がつ」として見られており、耳に喧しく「さえずる」ものらとして地に這うものとしての姿が写されているに過ぎない。
文学は、最も原始的な時代に口から口へと語られた。聞き手として当時にあっても一定の大衆は予想されたのであったし、文学が印刷されるようになってからは、読者としての大衆は或る場合には民族と国境とを越えて考え得る状態になった。文学と読者大衆との関係はしかく密接なのであるが、従来のブルジョア文学に於ては漫然読者という表現の中に込めて考えられていた大衆というものの存在が、昨今作家にとって特別に見直され、しかもその見方に幾つかの異った傾向が見えるのは見落すべからざる点であると思う。林、小林、河上氏等はその「大人の文学」の提案の半面で、大衆というものを文化上の被供給者、被統制的な立場に置いて見ているのである。作家を軍人、官吏、実業家の活動中心と結びついたものとして文化的にも上位にあるものとして考えているのである。何か役人風な見方がここには感じられる。
谷川氏の意見も穏当な態度で表現されてあるけれども、文化の上で従来の作家と大衆とが歩み寄るということは、ブルジョア作家の理解の中で見られている大衆の性質が元のままである限り、作家性が元のまま自覚されている限り、作家の側からの困難が予想される。「私小説」を否定して客観小説を提唱し、より広い社会性を作品に齎す必要は、大衆について理解がそれぞれに違っている作家たちの間にも、共通な一つの翹望として今日彼等の関心の前面に置かれている。今日の紛糾した社会情勢の中で、現実の諸事情を文学作品の中に客観的に描くことは非常に困難である。よしんば一作家がそれに充分の芸術的力量を持ち、素材も持ち、歴史の見通しを持っているとして尚その可能を疑わせる特別な事情が今日の日本に支配している。単純に個々の作家の才能の力で解決し突破することの出来ない柵がある。客観小説を提唱する人々が今日作品の実際では申合せたように歴史小説の分野に紛れ込んだり、通俗的な大衆文学、通俗文学に入って行っていることも、複雑な観察を求める現象である。
多くの作家によって今日大衆は自身の文学を作る可能を持った者としてその面での有機的関係で見られておらず、或る意味ではプロレタリア文学の運動が起らなかった以前のままの内容で作家は大衆を取上げているのである。このことはどうして起って来たのであろうか。五六年の歳月を過去に遡って、簡単に経過を眺めたいと思う。
一九三二年以来日本では内外の事情によってプロレタリア文学が運動としての形態と機能とを失ったことは既に知られている通りである。左翼の運動は日本の資本主義社会の特殊な人工培養性に従って全く独得な歴史を持つものであるが、プロレタリア文学運動の消長もこの全体的な特徴に影響を受けている。客観的情勢が満州事件と同時に急転した。このことと団体に被った被害の甚大であったこと、他の一面には若いその運動が指導方針の中に持っていた未熟なものとが絡み合って、プロレタリア文学者達の間に分裂と動揺とを来した。折から、かつてはプロレタリア文学運動の主唱者の一人であった林房雄氏等から旺《さかん》に文芸復興の叫びがあげられた。
この文芸復興の叫びには、プロレタリア文学の仕事に当時従っていた人々の中から呼応するものが現れたのみならず、ブルジョア文壇の数年来沈滞していた空気にも一味新鮮な刺戟を与えたように見えた。文芸復興は当時にあっては素朴な形で言われた。小説家は小説を書きさえすればよいのである。作家は作品が第一である。何を恐るるところがあろう。さあ諸君、今こそ諸君の才能を思うままに伸したがよい。そういう意味の強いて名づければ芸術の一般性を土台とした鼓舞が、プロレタリア文学運動が作家に課題として来た諸実践、創作方法を発展せしめるための努力、芸術評価の規準の客観的な確立等に対立するものとして、強調されたのであった。
文芸復興の呼声は自身の創作方法としてリアリズムの提唱をしたのであった。しかしながら、その時期これらの人によって言われたリアリズムというものは、前後して日本にも紹介され始めた社会主義的リアリズムの理解とは性質を異にしていた。この人々の云うリアリズムとは、大体次のようなものであった。若しその作家が忠実に現実を描写するならば、現実そのものが含んでいる矛盾は必ず芸術作品に反映するものである。故に、作家は作家であれば足りるのであって特別な現実を観る眼、世界観等というものは不用である、作品は作品である限り進歩的な役割を自ら果すものであるという風な論がリアリズムについてなされた。こ
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