のに対する事大主義的な追随や、機械的な政治の文学に対する優位の承認を結果するであろうという危険は、誰の目にも明かである。プロレタリア文学が、方針に於て或る時期機械的な政治の優位を認めたと云って、文学を死滅さすものだと非難した人を顧ればその筆頭は林房雄氏であった。同じ人が僅か四五年の後に進んで現行勢力の下位に文学を置こうとすることは理解に困難である。
 室生犀星氏が近衛公や一部の顕官に逢い、一夕文学談を交したことで、軍人、官吏も文学を理解しようとする誠意を持っていると感激し、庶民出生の長い艱難多かった自身の閲歴をも忘却して、忻然《きんぜん》として「行動の文学」を提唱し、勇躍して満州へ行く悲喜劇的な姿も、結局はこれまでそれ程に作家の生活には世間人並のつきあいがなかったと言うことであり、それ程政治家等の文学に就いての関心が欠けていたことを語るに過ぎない。日本に於ける作家の社会的立場の特異性、貧弱さは、このことにも充分に現われているのである。
 岸田国士氏等によっても、文学及び作家の真の発展のために文壇が今は妨げとなっていることが言われている。これまでの狭い職業組合的な文壇が、個々の作家に与えるものを多く持っていないという事実は誰しもこれを認めなければならない。文壇の外に出るということが言われているのであるが、抽象的な文壇はその人々の経済生活を支えるための出版活動をしていたというのではないから、執筆は従来も営利的な出版物の上にされていた訳である。作品の市場としての今日の新聞雑誌、単行本出版のことは、その中へ文壇を出た作家というものを吸収するどのような能力を持っているのであろう。文壇を出るという言葉は成行として、出てから何処へか行くという感じを私たちに抱かせるのであるが、政府は作家の役人をどの位必要としているのであろうか。五・一五以来、世間の耳目は少壮云々の形容詞で何となく男の血気を刺戟して来ている。今日「大人の文学」を唱え、文壇を出たいという心持を何処にか持っている作家達は、年配から言っても所謂少壮の幹部どころの年齢であり、文学者の従来の生活には少なかった政治家、軍人等との接触の物珍らしさは、一部の作家が過去に於ては国際的な政治経済知識を著しく欠いていたという一面の無識から受ける驚きと相俟って、意外に安易な卑近な傾倒の感情を引き起していることも見られるのである。
 これらの作家は同時に文学の進展を害するものとして文学青年の存在を否定しているのであるが、文学の現状を見れば、そこには大きい実際の矛盾がある。この三四年来、芥川賞、直木賞、文芸懇話会賞等々|夥《おびただ》しい賞が懸けられ新人を招いている。ところで今日までこれらの賞を受けた人々は果して本質的な新人であったろうか。賞を与える側がその新人でないことに就いて消極的な言葉を添える有様であった。或る賞のために努力した若い作家は、多くの場合その賞の審査員である諸作家の影響というものに対して、全く自立的な感情を持ち得ないであろうし、又私などはそのことで自身の芸術の素直な発展を阻害されている何人かの人を知っている。
 今日の国家経済の方針に依って、文化の大衆化に重大な関係を持っている紙と印刷費用とは高騰する一方であるから、一時のように同人雑誌の刊行も困難になり、他面発表機関も困難になることから、雑誌を持っていてその誌上を割き与えることの出来る作家の周囲には今後も益々文学志望者がその習作と共に蝟集《いしゅう》するであろうと思う。それらの文学愛好者達は、発表の機会を考えてそこに集り、だが必ずしもその統率者に対して人間及作家としての尊敬を全幅的に捧げているとは限らない。或る場合には自分の本性と反撥するものをも感じつつ尚悲しき利害から毅然たる態度も示しかねる自分に自嘲を感じることもあろう。そのような生きる感情の状態から、新たな文学が生れ得ると考えれば、あまり作家と作品との生活面に於ける統一の重大性を無視したことである。夏目漱石は周囲に多くの後輩の出入があった。勿論作品の発表のために尽力している。けれどもその時代のことと今日の右の事情とは、二十年の歳月が日本と私たちとを変えているように、質を変えているのである。
 これらの曲折の間に、プロレタリア文学はどのような存在を続けて来ているであろうか。文学運動としての形を失いつつ、作品は書き続けられ、読者を持ち続けて今日に及んでいる。ブルジョア文学の一部が社会的動揺によって文学の独自性をも危くしかけている時期に、プロレタリア文学は人間の心に潜んでいる合則的なもの、合理的なものを愛する心、或は現代の生活に種々の疑いを抱くものの心に触れるその本質に依って存在を価値づけられて来ている。青野氏は最近の論文で、プロレタリア文学の存在の根強さの上に安んじ、刻下の社会事情の中にあって闊達自在の活動をし得る自信こそプロレタリア作家の持つべき生活力の強さという風に言われているのであるが、この闊達自由ということに就いてはその響きが今日の万人にとって望ましいことであるために、一層周密にその方向や内容が調べられる必要があると思う。青野氏が自身の解釈に従って自身進退せられることは、もとより氏の主観的な自由である。しかし、それが必ずしも客観的な望ましき内容に於ける闊達自在の活動であるかどうかということに就いては自ら異る見解もあろう。
 プロレタリア作家の文学に於ける任務は、その芸術の中で、今日やかましい大衆の問題を正当に理解し表現して行くこと、芸術に於ける民族的な特徴を広い偏見のない目で現実の中に見極めて形象化してゆくこと、及び芸術作品に描かれる人間性というものに就いての統一的な掘り下げ等を通じて、新しき時代に役立つヒューマニズムの文芸思潮の内容づけをしてゆくことであろうと思う。今日過去の私小説を否定するものとして、社会的な客観小説が提唱されているが、この文学に従来の近代的扮装に身をかくした戯作者風な無批判な行動の追跡に代る真に大衆的と言われるべき内容を与えて行くこと一つでもプロレタリア文学の作品が求められている責任は軽くないのである。
[#地付き]〔一九三七年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「唯物論研究」
   1937(昭和12)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング