ての立場からその学芸欄に関係を持っていた諸新聞と、改めて関係を断っている。このような些細なことに現れる不自由は、作家としての彼に闊達な振舞を内面的にも外部的にも拘束しがちであったろう。ドイツではゲーテが宰相であれ程の文学者であったというような例は、事情の違う日本では現在までの歴史の性質に於ては有り得ないのが自然とさえ思われる。
以上のような歴史を持って日本の純文学が私小説の伝統の中に生き、今日に至る間に、インテリゲンツィアとしての作家が政治経済の活動への参加から切り離されていると同時に被動的な社会的立場に置かれて来た大衆の日常ともその知性によって切り離され、次第に芸術の内容を非社会的な、主観と理念と弱小な自我の輾転反側の中に萎縮させて来たことは、見易い現実の推移であった。
今日、林、小林その他一部の作家によって或る意味では愕然としたようにブルジョア作家の大衆からの游離が注目せられ、しかもその対策として、現在勢力ある官吏、軍人、実業家の中心課題を文学の課題として、「大人の文学」を作らんとすることは、これまで述べて来た日本の文学の特質から見て、どういうことになるであろうか。権力というも
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