性、インテリゲンツィア性のあるがままの形での認容であると誤って理解した。これは全く正反対のものである。この誤解は、その半面に、さっきもそれについて触れた些末的写実主義の潮流とより添って流れたために、当時作家達が所謂自由になってのびのびと書き始めた諸作品は、要するに低調な日常茶飯的身辺小説、主観的な私小説の域を遠く出ることが出来なかったのであった。
続いて作家と教養の問題が起った。これは、華やかなるべき文芸復興の芸術的内容の貧寒さからその打開策として言われて来たのであった。同じ頃古典の摂取ということが文壇でやかましく言われ、バルザック、スタンダール、ドストイェフスキー等が読み直され始めた。だがこの古典の摂取も作家の豊富さを増すためにはあまり役に立たなかった。それには理由があった。これらの作家達は既に文芸復興の声を挙げたと同時に、厳密な意味での評価の規準を我にも人にも否定し去っていたのであったから、古典を読むに当っても当然の結果として読む人々の作家的主観の傾向に準じて、謂わば鑑賞する態度に止まらざるを得ないのであったから、一般文学の創作力の豊饒化という、客観的な影響にまでその研究を高める
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