栖鳳や大観と比肩し得る作家が一人もいないと言い得るであろうか。例えば、島崎藤村、徳田秋声等は、日本の資本主義が勃興の途についたロマンチシズムの時代から、自然主義の時代、白樺等によって唱えられた人道主義の時代、更に社会の推進につれて生じた新たな階級の文学運動の開始等、明治から昭和に至る日本文化の縦走をその一身の芸術のかげに偲ばせる現代の古典として評価すべき作家である。これらの作家を、栖鳳の貰った文化勲章に価しない芸術家であると言うことの方が寧ろ困難である。作家には文化勲章が与えられず、日本歴史の研究その他で知られている徳富蘇峰氏等の名が候補者として噂にのぼっているのはどう言う訳であろうか。
ここに文学そのものの、特に小説というものの本質の問題が横《よこた》わっていると思われるのである。文学の創作が現実を反映すると言うこと、作家の人間的な全面がおのずからそこに露出しているということ、しかも芸術家である人々は、それぞれの時代や自身の制約の中にありながらも比較的常に敏感に自分と周囲との人間生活を観察しているので、小説は傑出したものであればあるほど謂わば人間臭さが強い。栖鳳が人間臭い生活はそれ
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