と見通しの欠如とは切り離せない関係に置かれている。
 私は、この文章の中で今日の文学の現実の姿を粗描し、文学以外の専門に従事する人々のためにも今日の文学的討論や作品の健全な理解に役立ちたいと思う。

 昨今林房雄、小林秀雄、河上徹太郎その他の作家・評論家によって、今日の大衆が文学的関心を失っているという点が注目されている。この頃の普通人はどうも小説――純文学の作品に対して興味を失っている。大衆小説は読んでも、真面目な小説は読まなくなって来ている。この対策として、作家が文学青年を目あてにして書いたような過去の「私小説」をやめ、大いに社会性のある、大衆にとっても面白い小説を書かねばならないという意見が出されている。林房雄氏はその具体案として「大人の文学」を提案し、真面目な作家は現代の官吏、軍人、実業家の中心問題とするところを文壇の中心問題として、二年でも三年でも根気よくそれを繰り返すべきであると言っているのである。
 評論家谷川徹三氏は、現代の日本では大衆の持っている文化水準と一部の作家が持っている文化水準とはひどく懸隔している。そこに文学が大衆の生活との繋りを失う原因があるのであるから、新しい文学の方向としては、この両者の距離を埋めるような均衡を見出してゆくようなものが求められると言っている。
 作家武田麟太郎氏は、日本文学の庶民性を主張しつつある作家である。日本の文学は庶民の生活の中から生れたものであるとし、現代作家の任務は現代の庶民の生活にとけ込んでその朝夕のいとなみとその涙と笑いとをあるがままに描き徹することに於て庶民の生きるべき方向と道とが自ら示されるという見解である。『人民文庫』の人々の作品に共通な風俗描写の根柢にはこういう大衆というものの見方が横わっている次第である。徳川時代の文学作品のあるものは、一種の町人文学として当時の官学流の硬い文学、経綸文学に対立し、庶民の日暮しの胸算用、常識を鋭く見て、例えば西鶴等はその方面の卓抜なチャンピオンであった。しかし、日本文学全体の歴史を通じて庶民の文学であるというのは明らかな無理である。王朝時代の記録は、文学の優れた作家の生涯についてさえ、その人々が高貴な御方でなければ詳述していない。紫式部の伝記を満足するように書けない原因は、この当時の記録のないことである。林房雄氏等は日本のロマンチストとして「抽象的な情熱」に従って王朝文学を読むと言っているのであるが、王朝の文学に当時の民衆は何と描かれているであろうか。「もののあわれ」を知るみやびやかな上流人に対して「むくつけき賤山がつ」として見られており、耳に喧しく「さえずる」ものらとして地に這うものとしての姿が写されているに過ぎない。
 文学は、最も原始的な時代に口から口へと語られた。聞き手として当時にあっても一定の大衆は予想されたのであったし、文学が印刷されるようになってからは、読者としての大衆は或る場合には民族と国境とを越えて考え得る状態になった。文学と読者大衆との関係はしかく密接なのであるが、従来のブルジョア文学に於ては漫然読者という表現の中に込めて考えられていた大衆というものの存在が、昨今作家にとって特別に見直され、しかもその見方に幾つかの異った傾向が見えるのは見落すべからざる点であると思う。林、小林、河上氏等はその「大人の文学」の提案の半面で、大衆というものを文化上の被供給者、被統制的な立場に置いて見ているのである。作家を軍人、官吏、実業家の活動中心と結びついたものとして文化的にも上位にあるものとして考えているのである。何か役人風な見方がここには感じられる。
 谷川氏の意見も穏当な態度で表現されてあるけれども、文化の上で従来の作家と大衆とが歩み寄るということは、ブルジョア作家の理解の中で見られている大衆の性質が元のままである限り、作家性が元のまま自覚されている限り、作家の側からの困難が予想される。「私小説」を否定して客観小説を提唱し、より広い社会性を作品に齎す必要は、大衆について理解がそれぞれに違っている作家たちの間にも、共通な一つの翹望として今日彼等の関心の前面に置かれている。今日の紛糾した社会情勢の中で、現実の諸事情を文学作品の中に客観的に描くことは非常に困難である。よしんば一作家がそれに充分の芸術的力量を持ち、素材も持ち、歴史の見通しを持っているとして尚その可能を疑わせる特別な事情が今日の日本に支配している。単純に個々の作家の才能の力で解決し突破することの出来ない柵がある。客観小説を提唱する人々が今日作品の実際では申合せたように歴史小説の分野に紛れ込んだり、通俗的な大衆文学、通俗文学に入って行っていることも、複雑な観察を求める現象である。
 多くの作家によって今日大衆は自身の文学を作る可能を持った者としてその面での有機的
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