ことには、そもそも読む腰の据えかたに普遍性を欠いたのも必然なのであった。
今日特に私たちの注意を引くことは既に当時日本文学の古典に対する教養のことが云々され始めていたこと。しかしながら、当時にあっては単に文学の教養としての範囲に於て言われていただけであったという事実である。谷崎潤一郎、永井荷風、佐藤春夫等の作家は彼等の古典文学の教養を土台として例えば「盲目物語」「春琴抄」「つゆのあとさき」等の作品を示し、文芸復興はさながらブルジョア老大家の復興であるかの如き外観を呈した。当時にあっては、佐藤春夫は芸術の技法の面から日本文脈の研究について一つの見解を示していたが、それは今日の佐藤春夫が「もののあわれ」を云々する内容、傾向とはその社会的性質に於て遙かに淡白な作家気質によったのであった。横光利一氏が本年一月『改造』に発表した「厨房日記」は日本的なるものとして又人間の知性の完全無欠な形として、封建時代の義理人情を随喜渇仰する小説であって、常識ある者を驚かしたが、当時にあっては、彼の復古主義も情勢の在りように従って「紋章」の中に茶道礼讚として萌芽を表しているに止った。
かくて、作家は教養を求めんとして机にしばりつけられたのであったが、古典作品の鑑賞に於ては或る意味でのペダンティシズムが跳梁するばかりであるし、作品の現実はその関心の中心が益々技巧専一の職人的傾向に陥り、しかもそれらについての是非の論は結局文壇の机上論に終始する傾きにあった。これにあきたらず、作家に生活的・文学的能動の精神を要求して起った一団の作家達があった。舟橋聖一、小松清、豊田三郎の諸氏で、これらの人々は雑誌『行動』によって行動の文学を創らんとしたのであった。
彼等は作家のより広汎な社会生活と生活に対する積極性と若き時代のモラルとを自身に求めたのであった。けれども、第一これらの人々が社会と文学とに階級を認めざるを得ない今日の現実に反して、能動精神というものを抽象化してこれも漠然たる一般社会性の上に強調したことは、折角若き時代のモラルを創らんとしつつ、パン種の入っていないパンをふくらがそうと焦慮するに等しい本来的な無理があった。従って作品の実際に当っては、最も手近なかつ日常的な恋愛の推移の過程を、些かは感傷ぬきに雄々しく描こうとする努力、又は俗世間の利害の焦点の推移によって権力も推移する浮世の姿を描くという試みの限度に置かれたのであるが、この能動精神の主観的理解には、例えば肉体の慾望と精神の能動性とが現実の中で対立するもののような、精神が能動を欲することから、肉体の慾望にも従うというような観念的な観方も作品に反映しているのであった。イギリスの作家D・H・ローレンスの作品の紹介等もなされた。しかし、それはイギリスという国情、キリスト教の伝統、及ヨーロッパ戦争という諸条件の後に炭坑夫の息子ローレンスを生んだのであって、日本の自由主義と民主主義とを知らず、又一方に於てキリスト教の女性崇拝の伝統をも持たない社会の現実の中では、生活的にも文学的にも生新なものを生むことは不可能であった。
一九三五年以降のフランスの社会的事情の変遷、人民戦線の拡大等は、文化の上にヒューマニズムの提唱をもたらした。小松清氏等によってヒューマニズムの提唱は日本にも移された。日本に於けるヒューマニズムの紹介は、社会主義的リアリズムがかつてそのように扱われたと同じに紹介の抑々《そもそも》から紹介者の意志の方向を加えて説明された。ヒューマニズムは、あらゆる人間的なるものを抑圧する強権に抗することを、そして人間性の新たなる主張を支持し、ファシズムに賛成しないものであるが、従来理解されていた意味でのマルクス主義の傾向とは異ったものである。プロレタリア文学ではない、もっと広いものである。として提唱された。
ここで私たちは誠に興味深い現象に遭遇した。能動的精神といい、ヒューマニズムといい、それぞれ熱心に討論されたのではあったろうが、社会全般の中で見ればやはり文壇をめぐっての抽象的な専門家間の論議に終っていたことである。この一二年来、日本の大衆の日常生活と生活感情とは、少なからずショックを受けるような出来事があった。経済的に、軍需工業関係者以外の一般人は、物価騰貴のため急速に貧困化している。文化的の面にもその貧困は響いて来ていると同時に、大衆の文化的内容そのものの質が、「依らしむべし。知らしむべからず」的事情の下に貧困化し低下しつつある。大衆の多くを語らぬ口と、広く、深く視る便宜を益々縮められつつある眼とは、十分にその由って来るところをも究明しかねる日常生活の悪条件に囚われ勝ちである。政治と民衆とは決して近い隣りにはいない。経済の枢軸の廻転は民衆にとっては増税としてのみ最もはっきり感得されるという状態である。
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング