その時々の一種のモラルみたいなものを描いてゆく」(青野氏)ものとされているのが、生態描写である。青野氏はなかなか面白いとし、宇野氏は「イヤ、いかんね」と云い、その座は笑声に満ちたらしいが、これをすこし云い直してみると、私たちの直感で、或る本質がつかめる。「作家の系譜」と云ったとき私たちに感じられるもの、「作家の生態」と云ったとき受ける一種の感じ、同じであるとは誰しも云えない。
 移り変りに重点をおく、という現象への人間の適応を辿る生態描写には、生存の跡はうつせても生活は彫り出しきれない。一つの移りから次の移りそのものの肯定はあって、動きの現実がもっている評価は作家の内部的なものとの連関において考えられていないのである。モラルというものも、動きの合理化に過ぎない場合が多いことは、一つ一つの動きに評価を求めない態度から当然導き出される。
 そして、そういう風な小説ならば「あれだけ書いて、あれだけ見れば人生に対する観かたをもって来る筈なのに、其がない」(青野氏)場合でも一応は書けるのである。

          五

 あらゆる社会現象の理解のために、そして文学の正常な進展のためには、現代の歴史的な性格というものが動的につかまれなければならないわけだろう。その意味で、今日の文学の感覚の中で歴史性というものはどう見られているか、なかなか興味がふかい点である。
 高木卓氏の「歴史小説の制約」(新潮)は示唆にとんだ文章だと思った。歴史を扱った小説は「過去からとび出して現在に迄及ぶこと」すなわち「過去の現在への相応」があるべきものである点、及び歴史小説のその「現代相応的な方法」によって、今日はトンネルがくずれて汽車では通れなくなっているところをも街道を草鞋《わらじ》ばきで目的地へ行きつける場合もあること、しかし汽車があるのにちょんまげつけて歩く方を選ぶという方法の唾棄すべきこと、並に、史実は甚だ重要ではあるが唯一の準拠的なものではない(例えば官選歴史書でさえ時代時代に修正や改訂されつつある事実)それ故「史実」と相異することでだけ咎めらるべきでないこと、さらに現代のように巨大な転換期における歴史小説の新しい方向として、従来「主人公」に象徴または反映されていた時間空間は「時間空間」そのものを主役として前面へ押し出され「従来主人公だった人間が却って添景にまで後退するという行き方の小説
前へ 次へ
全10ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング