という作品などは、文学の大衆化が誤って理解された芸術的実践の一つの不幸な標本を示していると思われる。
ひとくちに、大衆と云っても、その規定のしかたはいくつかあると思う。少くとも、大衆が低い文化をもっている方が御し易いという視点にたって大衆の文化を導いてゆく大衆に対する理解と、その社会を構成している多数の人々がだんだんましな生活をやってゆける方向に導かれなければ全体として社会の発展や幸福はのぞみ難いものであるとして大衆を見る観かたとでは、全く対蹠的な性質をもっている。漫然と、政府に支配されている者一般として大臣や何かでないもの全体として大衆というものを感じている人もあるであろう。
大衆というものを、文化においても創造的能力より消費的面において見る、つまり『キング』と浪花節と講談、猥談をこのむものとしてだけ見て、しかもそういう大衆の中には種々な社会層の相異があり、その相異から生じる利害の相異もまたあるという現実を見ない一部の人々は、文学の大衆化は大衆の文化水準の最低のところまで作家がさがってゆくことであるとする。文学そのものが本来の性質としてもっている芸術の力によって読者の生活の感情を
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