心持でそういう接近があり、それは今日、文学の上で大衆性を語る場合の特徴をなしているのである。
プロレタリア文学の歴史はさまざまの曲折の道を辿るであろう。そして、その一曲の一折れは、それぞれ当時の歴史の客観的な事情と結びついて現れるのである。今日、プロレタリア文学の歴史的諸相の一つとして文学の大衆化を考えた場合、どうしても数年前とはちがう大衆そのものの広汎複雑な構成、その勤労的性質に即さねばならぬ。そこでは左翼的な意識の有無が第一の問題とはならず、或る勤労条件、生活環境におかれた一人の人間が、自分の人間らしい心持から周囲と摩擦し、自分自身の内にある新しいものと古いものとの間の矛盾を感じ、使うものと使われる者との必然的な利害の対立を感じ、そこに人間らしい解決を求めようと努力している。そういう努力の姿としての人間性が芸術化されるのを待っていると思う。文学の本質は、くりかえして云うが、その芸術の魅力によって、人間の心持を高める一つの確固不抜な要素をもっているものであり、少くとも文学として或る作品を手にとりあげた時、大衆は、自分の心持が人間として高められることを自然に求めている。勿論、直接の感覚としては面白さを求めるとも見えるが、面白さの要素は心理的に綜合的なものであり、探偵小説、怪奇小説の類でさえ書かれている世界のリアリティーは、面白くない面白いを決定する重大な契機となっている。
面白さが読者大衆から要求されているということを、すぐエロティックなものだのチャンバラだの、くすぐりと見なすのは大衆の感情そのものを実際知らないものであるし、作家らしからぬ粗笨《そほん》さである。大衆の生活の現実にふれてゆく社会的リアリティーが作品というものの窮極の面白さであることには疑いない。大衆の人間的苦悩、時代の重しを感じ、それらの重みを欲していない心持の身じろぎを捕える芸術の社会性、そのような今日の顕著な人間性のリアリティーをもち得なくなったことから、従来の一部の作家が文学の大衆化を叫び出し、しかも大衆というものの誤った理解から誤った通俗化、低俗化への道を辿りはじめ、文学そのものを腐敗させつつあることから見ても、このことは明らかなのである。
個々の作家が、それならば、どのようにして今日の人間性、大衆の生活感情を作品に反映してゆき得るかと云う点になると、答はまことに平凡な、耳馴れた、既に
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