直に闡明され得るなら分明となるはずのところをそれが出来ない事情があるため、一層ものごとが複雑になっているというような、二重の複雑が平凡な民衆の生活の思いよらぬ心持の隅にまで影響している。
 従来の純文学の題材、手法は、こういう困難な日常におかれている人々の感情にぴったりしなくなった。作家の社会的孤立化に対する自覚と警戒、その対策が、文学の大衆化の呼声となって現れて来たのは、本年初頭からのことなのである。
 こういう事情でとりあげられているきょうの文学の大衆化の問題について、二つの問題が常にこんぐらがってもち出されて来ている。それは、文学の大衆化ということの本来の実体についての第一に行われるべき研究と、一人一人の作家が自分の芸術を大衆化してゆくにはどういう実際上の方法によるべきであるかという第二の研究とが、とかくいちどきに語られている。そのために、先ずはっきりと知りたい「大衆」という言葉の本体さえ見きわめられず、漠然、作家も大衆の感情を感情せよという風な流行が生じ、そのことは結果として、あり来った純文学の単純な在来の通俗化をひき起したりしている。『文学界』六月号所載川上喜久子氏の「郷愁」という作品などは、文学の大衆化が誤って理解された芸術的実践の一つの不幸な標本を示していると思われる。
 ひとくちに、大衆と云っても、その規定のしかたはいくつかあると思う。少くとも、大衆が低い文化をもっている方が御し易いという視点にたって大衆の文化を導いてゆく大衆に対する理解と、その社会を構成している多数の人々がだんだんましな生活をやってゆける方向に導かれなければ全体として社会の発展や幸福はのぞみ難いものであるとして大衆を見る観かたとでは、全く対蹠的な性質をもっている。漫然と、政府に支配されている者一般として大臣や何かでないもの全体として大衆というものを感じている人もあるであろう。
 大衆というものを、文化においても創造的能力より消費的面において見る、つまり『キング』と浪花節と講談、猥談をこのむものとしてだけ見て、しかもそういう大衆の中には種々な社会層の相異があり、その相異から生じる利害の相異もまたあるという現実を見ない一部の人々は、文学の大衆化は大衆の文化水準の最低のところまで作家がさがってゆくことであるとする。文学そのものが本来の性質としてもっている芸術の力によって読者の生活の感情を
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