領域にも無関係ではあり得ない。官民一致の体制は、文学の賞の本質にも十分に反映している。このことは、現実生活の中では、文部省の教科書取締りにあらわれた、文学の読みかたの、特殊な標準とも関連しているから、各種目の長篇小説の未曾有の氾濫状態の一面に、おのずと、文学とは何であろうかという、文学にとって最も核心にふれた反省が、一般の人の心のうちに擡頭しつつある。この頃のどの小説をよんでも、心は何か満たされることが出来ない。これはどうなのだろう、これはどんなものなのだろうかと、真に心にふれる作品をたずねて、あれこれと次々に買う読書人の、そういう不満の心持が逆に小説のうれる一つの動機になっているということは、注目すべき点と思う。
 一般人の生活について云えば、生活は物質的にも精神的にも苦難多き時代に面している。最もたくさん小説をよむ青年男女の心の内奥に立ち入ってみれば、今日の若い人々の心は決して四年前の若い人たちの心のままの色合いではない。人生は、複雑極るその切り口をいきなり若い人々の顔の面にさしつけている。旧来の戦争は文化の面を外見上からも萎縮させたが、今日ではそれが近代性において高度化して、戦争とともに一部に成金が生じる現象は、文化の分野にも見られるようになった。永年の窮迫と不遇から時局によって世間的に一躍し、温泉へ行って忙しい忙しいと小説を書きとばしているというような農民生活の在りようを、農村生活の現実とてらし合せて考えたとき、その作品が、かち得る賞というものについて、人の心は単純にあり得ないのも自然ではあるまいか。
 外見上の文学の繁昌が、その本質に対する疑問を喚びさましている一方、この一般的な活況の中には、やはり本ものの文学が生育されて行く或る可能というものも見えがくれしているのが実際である。文学とは何であろうかという、文学への新しい考え直しの慾求と一緒に、着実にその疑問の一筋を辿って、自分の道を進もうとしている作家の存在も、決して見のがすことは出来ず、そういう作家と、そのような作家を志して文学修業を怠らない人々とが、窮局において、世態の大波小波を根づよく凌いで、未曾有の質的低下を示していると云われている今日の文学の屑の中から、新たな骨格を具えて立ち出でて来ると、期待されるのである。
 現実は豊饒、強靭であって、作家がそれに皮肉さをもって対しても、一応の揶揄をもって対し
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