え奪ってしまっているのが今日の現実である。そもそもなぜ農村と都会との間にこのような文化のおびただしい相違が起るのであろうか? 元来、資本主義の社会にあっては、農村は資本主義生産のいわば植民地のようなものである。農村は都会の工場へ安い原料、労働力を提供して都会の工場主たちがこしらえた高い生産品を買わされている。特に日本のように農業の方法及び、地主と小作との関係が封建的な形のままで残されているところでは、農村の支配的な物の考え方はどうしても封建的な物の残りが今日なお強い影響力を持っている。世界の経済発達の歴史を拡げてみると日本の近代資本主義は日本の農業の以上のような特色ぬきにしては、今日まで発達し得なかったことがあきらかにされている。したがって資本主義の社会を支配するものにとっては農村がいつまでも封建的な残りものの中に閉じこもっている方が安心であり便利である。まして昨今のように世界の経済恐慌につれて、米の問題、繭値下りの問題など、農民の生命をおびやかす問題が一向に具体的な解決を見ないでますます切迫するばかりである時代においては、いわば農民が自分たちのしょっている一戸あたり八百円という恐しい借金の真の原因などについて知らない方が、支配するものとしては便利である。自然科学の力は今日いながらアメリカで話す大統領の演説がきかれるほどの発達を示しているが、そのラジオは農民の借金の解決案のために放送はしない。本願寺の坊さんが今の世の中に生きていることは仮りの世であって死んでからこそ真実の世界に生きるのだから、現在の苦痛は自分のあきらめた気の持ちようで苦にするなと精神講座を放送するのである。
農村の貧困は事実、一冊の雑誌さえ容易に買えない経済状態に農民をおとしいれているが、資本主義の生産はすべて大量に生産されたものが安いから雑誌でも部数を多く刷るものが比較的安く即ち同じ三十銭でうんと頁を多く、グラフまで入れて作れるという訳になる。ところで、今日そのような大生産のできる資本を持った雑誌は、数えるほどしかなく、それらの雑誌社は売れ口を数でこなすために、もっとも文化水準の低い広汎なおくれた層を目指し、支配階級がその商売を援助するように内容を飽くまでも、支配する側にとって良しと考えられる方向へ編輯するのである。階級のある社会の下では何といっても労働者、農民はごくわずかの部分しか進んだ文化を持っていないから、事実においてそういう雑誌でも売れて行く必然性がある。売れるからますます多く作り、安いからますます読んで、自分たちの汗水たらしてとった金を払って自分たちをますます狭い低い隷属的な生活へ追い込む文化の影響を受けて行くという状態にあるのである。
読者は今度国定教科書の插絵が大変かわったことに気づいていられるだろうか? 先の教科書では、洋服を着、靴をはいて画かれていた小学生の姿が、改正されたものでは、和服で藁草履をはいている。これは何故であろうか? ある人はこれを説明して、「もとの絵は都会の生活を主にして画かれていた。あれを見て、農民はいたずらに虚栄心をあおられる。実際に農村で子供たちがしているような服装をした子供の絵の方が、質実な思想を養うに有効である。」といった。
この説明は、実際の一面のみにふれている。插絵の変更の他の一面にはゴム靴の買えなくなった農村の子供とその親とにこの貧困の状態を普通のものと思わせようとする効果が考慮されてあることは何人の眼にもあきらかである。
農村の文化の特性というものが、強調され、農村の文化を創るものは農民である、という農本主義的の考え方は、現代においては農民自身の幸福のために、欠くべからざる協力者である都会の労働者と、進歩的な知識階級人とを文化的にはもっともおくれた農民から切り離すための役割しか演じていない。もし、農村の真の幸福が今日のままの有様で農民が暮すことの中にあるのならば、なぜ、近頃やかましく農村の工業化の問題が叫ばれるのであろうか? 矛盾はここにも現れている。
農村の工業化の問題でも、それを計画する人々の間では、農村の若い娘の労働力というものが、重要な計算に入れられている。昨今の婦人雑誌の内容を見ても分る通り、婦人の天職を家庭の中にあって良妻賢母であること、やりくりのうまい主婦であることに認める傾向は、近頃一層いちじるしくなって来ている。婦人の幸福は家庭にあり、家庭において婦人が婦徳を全うすることこそ日本文化の世界に誇るべき輝きであると論じ、婦人参政権運動の市川房枝女史も座談会の席上でもとの婦選運動は男性に対して行われたような点がなくはなかったが、この頃は婦人の特徴をよく理解した上で、問題を考えている点が進歩したといえましょうといっている。
ところが、他の一面に近頃ではいろいろの軍需工場に多数の女が働いているし、その農村の工業化の問題においても、専門家大河内子爵は、機械製造工程の発達した現在にあっては、安い賃銀の農村の娘が、たやすく、自動車の部分品をも作り得るから、農村工業化の強味はそういうところにもあると新聞に意見を発表している。
この一見相反するように見える婦人の生活に対する観方を彼らはもっとも便利に縫い合わせる術を知っている。家が大事という封建的な立場に立った感情を婦人の心に強くめざめさすことは食うに食えなくなった家のために話にならぬほどの低賃銀で十三時間も働かせられたり、有毒な仕事にこき使われたりすることをも、忍耐強い日本婦人の美徳として自分自身満足するよう、たくみに利用されている。若い女から利潤をしぼり取る現実のしぼり手の姿を、家のためという言葉の雲のかなたに包みこませてしまうのである。ここにおいてわれわれはいかなる感情を「婦徳の輝き」に対して呼び起されるであろうか?
今一つここに注意すべきことは、現在の「非常時」的社会の相の不安につれて、いわゆるインテリゲンチアに対する嘲弄が文学その他の文化の面に現れていることである。
歴史はわれわれに実例を以て真に多数者の利害の上に立った文化を建設して行くためには、その基礎となる生産関係の解決問題と共に、進歩的なインテリゲンチアの協力がいかに必要であるかということをよく示している。資本主義の必然的な矛盾はインテリゲンチアをも経済的に窮乏におとし入れ、その広い部分が労働者化の過程をたどっているし、同時に、古い文化の涸渇《こかつ》と腐敗を見透し、自身の生存のためにも新しい生活と文化との建設の必要をますます自身の問題として感じるようになって来ている。インテリゲンチアの労働者の側への移行は、プロレタリア文化建設の可能性とともに世界的な動かすことのできない事実であり、必然の勢であるにもかかわらず、昨今の文化政策は非常に巧妙な手段でインテリゲンチアをふくむ小ブルジョア層にますます小ブルジョアの無気力を助長するような自嘲、自己嫌悪を吹きこみ、労働者の側からはその現象をさながら動かすことのできないインテリゲンチアの特性であるかのように愚弄するような社会的空気がかもされている。転向の問題などもその一つの現れであろう。
一方から見ると、誠に当を得たように思われる文化政策(たとえば学生がカフェー、ダンス場に出入することを禁じる新しい規則)なども、軍事教練に反対した汎太平洋婦人平和会議の決議に反対の見解を示している人々の意見とてらし合わせてみて始めて、真意が了解されるというものであろう。
現在われわれが住んでいる社会において、独占されている文化は進歩的な役割をはたしていず、反動的な内容を持ち反動的な目的のために動員されていることは、多言を要しない事実である。然しながら、歴史はまたわれわれに次のようなことをも教えている。
中国の有名な殷の紂王は自分の気に入らないことをいったり、書いたりした学者を土の中に生理めにし、本を焼きすてた。紂王の焚書として歴史に残されている。紂王はそのことによって自身の滅亡を早めこそすれ、それから逃れることはできなかった。そのことを歴史はわれわれに語っている。
[#地付き]〔一九三四年十月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「文化集団」
1934(昭和9)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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