今日の文化の諸問題
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)涸渇《こかつ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)文化の地理的性質[#「文化の地理的性質」に傍点]という
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 たとえばこの雑誌も「文化集団」という名をもっているように、われわれの見ききする範囲には非常に多く文化という言葉が使われ、卑近な一例をとれば、アンカにまで文化という名をつけてあやしまないようになっている。ところでその文化というものはどういう内容をもったものであるかと考える時、そこに二様の解釈があると思われる。広く人間の社会が創造した一切のものをこめて文化という場合もありそれよりせまく内容を定義して、風俗、習慣から教育、法律、道徳、哲学、科学、芸術、宗教、言語、などを文化という場合があり、私どもが普通文化という場合多く後者の内容でいっていると思う。
 昔から学者は右のような文化をいわゆる精神文化と称して、物質文化から切りはなして問題にするが、今日われわれの到達している世界観をもってすれば、いわゆる精神文化を物質文化から切りはなして問題にすることがあやまりであるばかりか、物質文化こそこの精神文化の基礎となるものであることがあきらかにされている。
 人間の生活が、きわめて原始的であって、わずかに棍棒を武器として野獣を狩って生活していた頃の生産状態では、文化も非常に原始的で数の観念さえもはっきりせず、絵といえば穴居の洞窟の壁にほりつけた野獣の絵があるにとどまった有様であった。それがおいおい発達して生産手段が複雑になり、社会生活が多様にかつ高まって来るにつれ、ついに今日見るような多種多様な専門に分化した文化をもつにいたっている訳である。
 文化の問題についていう時、ある種の学者は、文化の地理的性質[#「文化の地理的性質」に傍点]ということを非常に強調する。つまりそれぞれの国は気候も違い、地理的条件が違い、即ち海に近いところ、砂漠ばかりのところ、山地などではそれぞれ天然の産物も違うから特殊な文化がそれらの地理的な特色によって、変化を受けるという意味である。なるほど、同じ日本でも山にかこまれた奥羽の農村の持っている文化と、四国の海岸の漁村の持っている文化とをくらべれば、そこにはあきらかに異った特色が認められることは事実である。けれども地方の地理的な特色がその地方の文化の発展の第一義的要素であるということはいえないと思う。なぜならいくら海辺の村でもそこに住む人間が、海へ出て漁をして生存しなければならないという必要がなければ、漁村の文化の一大特徴である船を造る技術が発達することはなかったし、絵かきや音楽家がこのんで主題とする大漁祝いの時の歌、踊り、特別な衣裳などというものは、発達しなかったのはあきらかである。自然があるものを蔵していても、人間がその必要を認めて、それを掘り出したり、精製したりする生産のための活動を開始しなければ、それは全くないも同じだということは、今日国と国とが激烈な争奪戦を行っている石油と石炭についても分る。
 さらに文化の民族性[#「文化の民族性」に傍点]ということを強調する一連の学者がある。これまでの歴史を見ると、文化の面において、特にこの点を強調した時代がしばしば認められるのであるが、この解釈に従うと、文化というものはその文化を持つ民族の性質によって絶対的に左右されるものであって、ある民族の文化は決して他の民族の持つ文化と同じものでなく、ある民族は自身の純粋な文化というものを作り得るものであるという考え方だ。然し、はたしてそれは実際にあり得ることであろうか? 世界の歴史を見ればあきらかなように、純粋に孤立して社会発達をとげた一民族というものはなかった。民族は互に関係しあい、入りまじりあって発展して来るのであって、日本のような狭い土地の上でさえも、海という自由な広い道を通って、人類的にはアイヌ、ツングウス、インド支那、漢人、ネグリート、インドネシアなどがまじりあった民族が今日日本人として栄えている現状である。従って民族間の文化の差違というものは、交通の発達その他科学力の発達につれて、非常に速く動くものであり、絶対の相違ということはいい得ない。われわれの日常生活における実際の例をとってみても分るように、今日われわれにとってアメリカと日本との文化の相違は、決して同じ日本における封建時代の文化と、今日の文化との間にある相違ほど大きくはないし、絶対でもないのである。
 その時代時代に依って文化が違うということだけを切りはなして問題にされることがしばしばある。ある時代精神によって文化が支配されるという考え方である。たとえば昨今のように「非常時」という一つの時代精神が基本となって、われわれの今日の文化が支配されているというが如きである。しかしながら、これは冷静に現実を観察すると一つの誤った考え方であることが分る。同じ今日においても世界は決して単一の時代精神に依って貫ぬかれてはいない。日本は「非常時」であるが、アフリカのホッテントットのところでは「非常時」はない。即ち「非常時」的精神に依って文化は支配されていないのである。ホッテントットの文化は、今日のホッテントットが、野牛を殺してその角を取り、それをヨーロッパ人に売って暮しているその生産の未熟な条件に応じて自身の文化を持っているのである。この事実によってみても、文化の根源をなすものは、ある時代精神であるということは誤りであることはあきらかであろう。
 また文化はある国からある国へ、伝播されて発達するものであるという説をとなえる人がある。そういう人たちはイタリーにファッシストができたから、それが拡がってドイツのナチスになり、ドイツのナチスはイギリスに拡がるばかりか東洋の国々にもやがて拡がって来るであろうし、拡がって来るのが当然であるという論法を立てる。はたしてそうであろうか? 昔インドの仏教は中国に伝わり、日本に伝わった。然し、中国に拡ったインドの仏教はもとのものとは多くの違った点を持って現れたし、日本において拡まった仏教は、インドの仏教とは礼拝の形式においてさえも違うということをかつてその道の人からきいたことがある。ある国の文化がそのままの形、そのままの内容で他のある国の文化を形づくるということのいいきれないのは、歴史が証明する通り、どこへも拡がらずにある国でだけ栄えて、拡がらないままに衰滅してしまった文化というものがある。古代エジプトの文化のある種のものなどはエジプトの王朝が亡びると共に亡びた。今日有名なピラミッドや、スフィンクスが、何故、あの砂漠の真中に打ちたてられたろうか? 古代のエジプトの王が、全人民を奴隷として働かし得たからこそ、あの巨大なピラミッドもスフィンクスも作り得たのであって、それがなぜ他の古代の王国の文化の中に拡がらず世界に幾つも、同じようなピラミッドができなかったかといえば、エジプト以外の処ではそのような文化を打ちたてるに必要な社会の条件がなかったからである。即ち当時にあってエジプトほど奴隷制度の発達した処がなかったからである。
 以上のことからわれわれは何を結論として得て来るであろうか?「文化の様相を決定するのは生産力である」という社会の事実である。

 さて、前述のように、人間社会の生産力の発達につれて、今日まで発達して来た文化をおおまかにさかのぼってみると、まず始めに原始的文化があり、古代的、封建的文化の時代を経て近代資本主義的文化を持つ今日、という風に分けられると思う。ここでわれわれの非常な興味を引くことは、例えば同じ徳川時代の封建的文化といっても、そこには上方文化即ち貴族、武士の文化と江戸大阪などの町人文化とが存在したことである。これは疑いもなく武士や貴族が能や円山派の大名好みの絵などを好んだに対して、当時斬り捨て御免の境遇におかれてあった町人がその生活から決して彼らと同じ趣味を持つことができず、独特の文学や音楽、芝居などを作った証拠である。同じ封建時代でも威張るものと、威張られるものとの感情の中にはそれだけあきらかに社会生活における一致しない利害が反映しているのである。
 そして、又どういう時代においても利害を異にして対立する階級の文化が、同じ権利で社会の上に現われて来るということはない。必ず当時の支配階級の文化が、独裁的な形態をとって現れるのが常である。有名な源氏物語は藤原時代の封建貴族文化の精華であるといわれているが、あの作品は同じ藤原時代に文盲ではだしで一度び飢饉が来ると道ばたに倒れて飢え死んだ庶民のいかなる心持ちをも反映してはいないのである。文字そのものさえ、貴族に独占されていた。現在の中国がそうである。一九一七年までのロシアの農民の生活がそうであった。土地を独占していた貴族は文化を独占したし、工場と機械とを所有しているものが今日では文化の機関をも独占している事実はもっとも分りやすい形で今日のわれわれの生活の中に現れている。たとえば非常に大組織で雑誌の出版をおこない、月に数百万部の雑誌を売っている講談社はそれだけの雑誌をこしらえ得る機能を独占していると同時に、それらの雑誌によって、支配的階級が拡げようと欲するような傾向に文化を独占しているのである。
 今日われわれの周囲を取りまいているものは以上によってあきらかなように、資本主義文化であるが、この資本主義文化そのものの中に、過去の封建的文化の残りものがあるし、本質的にブルジョア文化とわけることはできないが、さまざまの点で特徴を持っている小ブルジョア的文化があり、さらに農民の文化及びプロレタリア文化の萌芽などがふくまれているのである。同時に、ブルジョア文化は今日深刻な内的矛盾を持っている。
 なるほど、ブルジョア文化も封建時代の文化に対抗して自然科学の力を正面に押し出して闘った初期においては、確かに進歩的な大きな役割を持っていた。封建時代よりは、より広汎な大衆の利害を代表するものとして役立った。然し貴族と僧侶に反抗したブルジョアジーが自身を支配階級として確立して生産手段を次第に独占するにつれて、彼らの文化に矛盾が現れて来た。労働と消費とがそれぞれに違った階級に属していること、肉体労働と精神労働とが極端に分裂していること、労働の極端な専門化、都会と農村との分裂など資本主義そのものが本質的に持っている諸矛盾が文化の上にも強力に反映して来ている。そして現在にいたってはすでに全社会の人類のための文化ではあり得なくなって来ている。

 この頃新聞雑誌の上で、身上相談が大流行であるが、かつて私は非常にわれわれに多くのことを考えさせる一つの相談と解答とをある新聞の上でみたことがある。十八九の青年が投書しているのだが、自分は何とかして東京に出たい。村の生活は年寄たちが古風で理解がないばかりか、青年たちの生活もその内幕に入って見ると恐しいほど程度が低い。酒を飲むことと、夜遊びが唯一のたのしみで、本さえ手に入れることはできない。うっかり本を読むとなまいきだとか、変りものだとかいわれるばかりでなく、東京から『改造』をとって読むようなものは、村の駐在の注意人物とされる。自分はもっと光明のある生活がしたい、そのために、東京に出たいがよい方法はないかという相談である。解答者は、たぶん山田わか女史であったと覚えているが、女史はその青年の都会へのあこがれを丁寧に訓戒し、都会生活の醜悪であることを話し、あなたの使命は東京へ出ることでなくて、村に残り、自然の美を理解して新鮮な空気をたのしみながら、自分の周囲に清い社会を作って行くことであると答えられてあった。
 その時、私の心に強い一つの疑問が起った。それは、この青年の他に何十万人という同じ心の青年がいるであろうが、はたしてその中の一人でも山田女史の解答で満足し得たかどうかということである。東京にばかり暮すものには、想像できないほど農村の文化水準は低く、農民は楽しみの少い暗く苦しい日常を送っているのである。農村の恐慌は農民から新聞さ
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