な特色がその地方の文化の発展の第一義的要素であるということはいえないと思う。なぜならいくら海辺の村でもそこに住む人間が、海へ出て漁をして生存しなければならないという必要がなければ、漁村の文化の一大特徴である船を造る技術が発達することはなかったし、絵かきや音楽家がこのんで主題とする大漁祝いの時の歌、踊り、特別な衣裳などというものは、発達しなかったのはあきらかである。自然があるものを蔵していても、人間がその必要を認めて、それを掘り出したり、精製したりする生産のための活動を開始しなければ、それは全くないも同じだということは、今日国と国とが激烈な争奪戦を行っている石油と石炭についても分る。
 さらに文化の民族性[#「文化の民族性」に傍点]ということを強調する一連の学者がある。これまでの歴史を見ると、文化の面において、特にこの点を強調した時代がしばしば認められるのであるが、この解釈に従うと、文化というものはその文化を持つ民族の性質によって絶対的に左右されるものであって、ある民族の文化は決して他の民族の持つ文化と同じものでなく、ある民族は自身の純粋な文化というものを作り得るものであるという考え方だ。然し、はたしてそれは実際にあり得ることであろうか? 世界の歴史を見ればあきらかなように、純粋に孤立して社会発達をとげた一民族というものはなかった。民族は互に関係しあい、入りまじりあって発展して来るのであって、日本のような狭い土地の上でさえも、海という自由な広い道を通って、人類的にはアイヌ、ツングウス、インド支那、漢人、ネグリート、インドネシアなどがまじりあった民族が今日日本人として栄えている現状である。従って民族間の文化の差違というものは、交通の発達その他科学力の発達につれて、非常に速く動くものであり、絶対の相違ということはいい得ない。われわれの日常生活における実際の例をとってみても分るように、今日われわれにとってアメリカと日本との文化の相違は、決して同じ日本における封建時代の文化と、今日の文化との間にある相違ほど大きくはないし、絶対でもないのである。
 その時代時代に依って文化が違うということだけを切りはなして問題にされることがしばしばある。ある時代精神によって文化が支配されるという考え方である。たとえば昨今のように「非常時」という一つの時代精神が基本となって、われわれの今日の文化
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