である進歩党によって提案された。社会党は、不意うちをうけた。「主権在民」を基本的性格とする憲法改正案は、このような幕間劇をもって十月貴族院本会議を通過し、翌十一月三日公布、一九四七年五月三日に施行されることになった。「主権在民」の新憲法は、日本にはじめて基本的人権の確立に関する諸項をもってあらわれた。男女平等も承認され、良心の自由も明記されている。しかしながら、この「主権在民」には余りに日本的特徴がつよくあらわれていて、国内の民主的な有識人および国外の有識人をおどろかした。それは、この改正憲法中になお天皇に関する特別な数箇条がふくまれていることである。その数箇条において天皇の世襲的な地位、それによってもたらされる身分の差・経済基礎が確保されており、少くない命令、決定の権利が天皇に掌握されている。一定の国の人民が天皇によって召集される議会をもつ[#「天皇によって召集される議会をもつ」に傍点]、ということは、議会へ天皇も出席するということとは、本質的に別のことである。一九四六年に日本の人民は、このようにして換骨脱胎させられた「主権在民」憲法をもつに至った。
第三期[#「第三期」はゴシック体] この時期の特徴はインフレーションの進行につれて生計費の高騰のために、人民が一層の生活困難におちいった事実である。一九四七年四月に行われた第二回総選挙の結果、社会党が第一党となった。社会党首班の内閣を組織するについては保守政党との間に幾多の紆余曲折があった。日本における大財閥を背景とする自由党は社会党が総選挙で勝利したことを日本における勤労大衆の急進勢力の進出であるとみて、吉田自由党総裁は選挙直後、組閣行き悩みの際に公然と反共声明を行った。前項に引用した記者との会見談の内容をみれば、自由党が日本の民主化の停頓や逸脱を決して悲しんでいないことは明瞭である。自由党のこの反共声明は社会党左派といわれていた同党内のより少い反動主義者のグループの一部のものに極めて注目すべき喜劇を演じさせた。内閣の椅子を占めることに対して情熱を感じた左派のグループ中、加藤勘十と鈴木茂三郎等が中心となって外国記者団を引見し、社会党左派が共産党に接触を保ってきたのは、勤労大衆を同党の組合総同盟に獲得するためであった。今日この目的はほぼ達せられたから今後共産党とは絶縁するという意味の声明を行った。この声明はただち
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