読者そのものの生活現実を作家の現実にうちこめられたものとして感じるというより、寧ろ、それを唱える人々の現実というものへの主観的な態度を、読者に向って示そうとした性質のものであった。そして、この民衆のための文学という声と同時に、或は同義語的に、民衆読者は、文学における批判の精神などを必要としていないのだということが特に強調されたことは、実に意味深いことであったと思う。この現実は手にあまる、という一部の人々の自己放棄の告白が、読者の文化の水準に仮托《かこ》つけて逆の側から表現された点が、今日の読者のありようにもつながる意義をもつのである。
四
たとえば、石川達三氏のような作家が、初めは「蒼氓」をかいて文学的出発をしながら、その後は「蒼氓」のうちにも内包されていた一種の腕の面を発達させて、「結婚の生態」に今日到達している姿はなかなか面白いと思う。この野望に充ちた一人の作家は、作品をこなしてゆく腕にたよって、例えば「生きている兵隊」などでは、当時文壇や一般に課題とされていた知性の問題、科学性の問題、ヒューマニズムの問題などを、ちゃんと携帯して現地へ出かけて行って、そこ
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