まって覗きこみながら、作者の生きかたというようなものに、文学的に高められた心が発動するというようなきっかけは刺戟されるよすがもない。読者の水準にかこつけて、作家・評論家たちが自己放棄を告白した時から、その人々にとって文学の作品は制作から次第に実務(ビジネス)に変質して来たのだと思う。

 島木、阿部という作家たちの読まれかたも、初めの頃は何かを人生的な欲求として求めている読者の心理をとらえて、しかも現実の答えとしては背中合せの本質をもつ作品が与えられていたのであったが、現実への作者たちの向きかたは、その作品の世界の拡大や成育を可能にせず、常識がAと云っていることを、その人らしい云いまわしとジェスチュアとでAという、そこに読者からの特徴の鑑別がおかれざるを得なくなった。
 同じ真面目さと云っても、習俗の真面目さと文学の真面目さとは必ずしも常に一つでないことは誰しも知っているわけだが、作品の今日の所謂真面目さは、真の文学の真面目に立つより、A子の真面目だわというところ、B氏の少くとも真面目だよというところに安住している形がつよい。作家の現実への精神の角度が、A子B氏なみのところに在って、文
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