のような眼くばりに漂い流している現実に向って、作家は、ではどんな自己の文学の足がかりを今日もっているのであろうか。刻々の現実をその発展の過程に於て本質的にとらえ、作家としての自己と作品との世界を支配して、その創作の血肉としての意味で読者の生活にもかかわりあってゆく作家の作家たる所以の態度というものは、今日作家自身にとってどのように把握されているだろうか。
この二三年の昼夜をわかたぬ波濤の間で作家自身既にそのような本質での作家らしさを失っているというのが、飾りないきょうの姿の一面ではなかろうか。作家も読者も肩を並べてぶつかりあいながら現実に追いまくられているとも思える。方向のなさ、意欲のはっきりしなさ、昨今はみな御同然お互様と云わば近所づきあいの朝夕の挨拶のようなところがあるように思える。
読者の生活が生きている現実の一部として作家の作品の方法や内容と密接にかかわりあってゆく自然な在りようは、考えてみれば、もう何年か前から薄弱な曖昧なものとなっている。四年ほど前に、民衆のための文学ということが一部で旺に云われたことがあった。それを唱える人々は、読者を目的として意識しながら、実際には読者そのものの生活現実を作家の現実にうちこめられたものとして感じるというより、寧ろ、それを唱える人々の現実というものへの主観的な態度を、読者に向って示そうとした性質のものであった。そして、この民衆のための文学という声と同時に、或は同義語的に、民衆読者は、文学における批判の精神などを必要としていないのだということが特に強調されたことは、実に意味深いことであったと思う。この現実は手にあまる、という一部の人々の自己放棄の告白が、読者の文化の水準に仮托《かこ》つけて逆の側から表現された点が、今日の読者のありようにもつながる意義をもつのである。
四
たとえば、石川達三氏のような作家が、初めは「蒼氓」をかいて文学的出発をしながら、その後は「蒼氓」のうちにも内包されていた一種の腕の面を発達させて、「結婚の生態」に今日到達している姿はなかなか面白いと思う。この野望に充ちた一人の作家は、作品をこなしてゆく腕にたよって、例えば「生きている兵隊」などでは、当時文壇や一般に課題とされていた知性の問題、科学性の問題、ヒューマニズムの問題などを、ちゃんと携帯して現地へ出かけて行って、そこ
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