での見聞と携帯して行った思想とを一つの小説の中に溶接して示そうとした。
この作品は他の理由から物議をひきおこしたが、作品の実際として注目をひくとすれば恐らくその溶接技術の点であったろう。トピックとしての思想と見聞の現実性とが、機械的に絡み合わされたこの作品での試みの後、作者は生活の思想、文学の思想として思想を血肉化す努力はすてたように見える。
判断と生きる方向とを文学的に求めてゆかず、浮世の荒波への市民的対応の同一平面において、その意味で「結婚の生態」は、今日の現実では作家が、文学をてだてとしてどんなに常識的日常性を堅めてゆくかという興味ある一典型をなしているのである。
小父貴にでもそれを云われたらともかく一応はふくれるにちがいない娘さんたちが、それと同じ本質のことを、アナトール・フランスの言葉というようなものを引用したらしく文学のように話されれば、何かちがった瞬きようをしてきくという心は、読者の何という可憐さであろう。しかし、生きている人間であってみれば、どこかでおのずからその本質が旧来のものの肯定に立っているのは感じられるのであるから、あらア石川さんと、婦人雑誌の口絵にかたまって覗きこみながら、作者の生きかたというようなものに、文学的に高められた心が発動するというようなきっかけは刺戟されるよすがもない。読者の水準にかこつけて、作家・評論家たちが自己放棄を告白した時から、その人々にとって文学の作品は制作から次第に実務(ビジネス)に変質して来たのだと思う。
島木、阿部という作家たちの読まれかたも、初めの頃は何かを人生的な欲求として求めている読者の心理をとらえて、しかも現実の答えとしては背中合せの本質をもつ作品が与えられていたのであったが、現実への作者たちの向きかたは、その作品の世界の拡大や成育を可能にせず、常識がAと云っていることを、その人らしい云いまわしとジェスチュアとでAという、そこに読者からの特徴の鑑別がおかれざるを得なくなった。
同じ真面目さと云っても、習俗の真面目さと文学の真面目さとは必ずしも常に一つでないことは誰しも知っているわけだが、作品の今日の所謂真面目さは、真の文学の真面目に立つより、A子の真面目だわというところ、B氏の少くとも真面目だよというところに安住している形がつよい。作家の現実への精神の角度が、A子B氏なみのところに在って、文
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