ると男二百四十万人ばかりに対して女は百五十万人ばかりであるらしいけれども、朝日年鑑は昭和十四年版も十五年版も、同じ統計を転載しているから、実際の数の上では特にこの一二年間ずっと婦人の有職者が増して来ていることが察しられる。それらの女のひとの中にどの位の割合で戸主がいるだろう。
戸主ということになると四百万票減るのだそうである。
日本の社会の習俗のなかで、女の戸主というものは実に複雑な立場を経験していると思う。友達のなかに三人ほど戸主である女性があって、そのひとたちの生活もいりくんだものとなっている。
女で戸主と云えば家つきの娘というわけになって、結婚の問題では千々に心を砕く有様である。
結婚というものが、家の後を立てるという周囲の習慣的な感情からせき立てられることも、若い女性の今日の生活に向っている心には一かたならない負担である。養子として良人を見つけなければならないという条件にも苦しいところがある。粉糖三合もったら養子に行くな、という云いならわしは一面で世情の機微を穿っていて、いくらかの財産があればあったで無ければ無いで、養う親ぐるみ娘を貰わなければならない次第が、結婚をむつかしくするのである。今日の若い婦人が生活の現実を観ている心は、そのような条件をも無視するような男のひとだの、愛だのが、やすやすと身近に在ろうとは予想もしていないであろう。
男のひとの戸主であることには、結婚についてもそういう苦しみは少ないのだと思う。長男であり戸主であり或は戸主たるべきひとがより希望さえされるであろう。男のひとの側にその両親だの同胞たちだのがついていることは、常識が当然のこととして来ているのであるから。
知人のある弁護士は娘さん二人をもっていて、恐らくは種々に考え観察された結果だろう。二人とも廃嫡して結婚させた。その通知には、本人の幸福のため廃嫡して結婚致させたるものに御座候という文面が添えがきされていた。
慈悲ある親は、戸主になる可愛い娘の幸福のためには、敢て廃嫡して結婚させてやるような複雑な何ものかが、日本の女の戸主の社会的な条件にこもっていることを、沁々と思わされた。
日本では女の幸福というものの一つの条件が、偶然一人の兄か弟があったということ、戸主でなく生れ合わせた、ということにさえ見られるというわけなのだろうか。
その弁護士さんのようにものわかりよい親があったとして、その娘さんが廃嫡されれば戸主ではなくなるのだから、戸主としてもし与えられる何かの権利があれば、社会的な性質のそれを先ず失うこと、我から失格して、妻の幸福を守らなければならないということにもなる。
そのような幾多の不便をのりこえて現在雄々しく日本の女戸主としての負担を負うて行っている女性たちが、私たち女の戸主はどうなるだろうと、問いかけたい心持を抱くのはまことに自然なことと思える。
彼女たちは一つの世帯の主人でもあるだろうし、そのような立場の国民としてそれぞれの税も納めているであろう。女の戸主への免税はきかない。
私たちの朝夕には、社会的な勤労の場面に働いている女性たちが仕事と家庭との間の板ばさみで困惑している有様に満ちているのだけれど、一つの家庭の主であるということからさえ、女には独特の困難があるというのは、いかにも日本の社会の歴史の特色を語っていると思う。[#地付き]〔一九四一年二月〕
底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年7月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
1952(昭和27)年8月発行
初出:「現地報告」
1941(昭和16)年2月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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