は、峯子たちの世代が面している生活の感情と、全くかけはなれたものがあった。
峯子は、何かの折、それらのことを正二に云ってやった。持ち前の虚飾なさで、正二の手紙のかきぶりが、自分に何を教えるか。そして、その手紙がかかれるペンの字は、どんなに、正二の肉体をさながらに、自分のところへもたらすかを云ってやった。
峯子がそんなに感じるなら、この御愛用のペンを粗相で失くしたりは出来ないね、気をつけよう。正二の返事には、そうあった。短く不精髭の生えた正二の口許や眼の表情が峯子には手にとるようにわかるのであった。
いつか灯のついた省線のガラス窓には、夥しい男の顔が重り合っている。勤めがえりの自分の外套からこぼれたマフラーの色も、揺れながら鮮やかに点じられている。
峯子の心を奪った罫紙の報告らしいものは、もう読んでいた男のポケットにしまわれている。
こんなにどっさりの人間が、みんなそれぞれに我が家への路をいそいでいるのだ。家《うち》――わたしのうち――私たちの家。今、峯子が帰ろうとしているアパートへ、出立の前晩、正二が来た。
峯子は、切迫して口かずがすっかり減ってしまった眼をいっぱいに瞠《みは》って、黙って正二のためにドアをあけ、彼をなかへ入れた。
初夏のしめっぽい、若葉の匂いがどことなくこもった夜であった。同級生の送別会からまわって来た正二は、まだ麦藁帽には早すぎるが、これではもう重いという風にソフトを無雑作に頭からもぎとって、そこへ放るようにおきながら、自分もそこへあぐらをかいた。
「やっと放免してもらったよ」
「よかったわ」
峯子は、夕方がすぎると、もう正二を待っていた。待って、待って、すっかり仕度してあった筈なのに、いざとなると妙に手順をまごつきながらちょっとした食べものをこしらえようとした。
「峯子、まだだったの」
「そうじゃないけれど……」
「じゃ、いいよ、いいよ、おやめ、やめて早くこっちへおいでよ」
正二はそう云って、止めた。
「折角こうやっていられるのに、もったいない。そんなことをしていちゃ」
正二の声や様子には、自分の送別会というような場所から来た人らしい亢奮がちっとものこされていなかった。
峯子は、つつましくおしゃれをして、白い絹のブラウズを着ていた。小さい円いカラーのついた、手頸までつつまれたそのブラウズは、艶のある峯子の頬をいつもひき立てるのであった。その晩は一つも涙がこぼれない代り、若々しい峯子の体を貫いて、火のようなものと悪寒とがかわり番こに走った。
「ふるえるようかい?」
正二は上衣の前をひろげて、それでなおぴったりと峯子を自分に近く、くるむようにした。峯子は一層ふるえ、一層烈しく顔を圧しつけた。
「ね、わたしたち、このまんまでいいと思う? ね、大丈夫?」
年さえ越せば正二の家の事情がややよくなって、二人は結婚することになっていたところだった。このままの自分たちでわかれるということも、そうでないものとなってそして別れるということも、今の場合、峯子には考えて判断する種類のことでなくなった。
正二は、暫らく黙っていたが、やがて、
「僕も考えた」
と云った。
それからすこし自分から離すようにして峯子の顔を長く眺め、力のこもった手のひらで、前髪の方へと峯子の顔を撫でた。
「峯子は、どうなんだろう。このまんまでやって行けるかい?」
峯子にやってゆけないというわけが、どこにあるだろう!
二人は再び沈黙した。時間ではかることのできない刻々が過ぎて、いつか様々な考えの去来につれ自分の躯ぐるみ胡坐《あぐら》の中の峯子をもゆっくりと揺すっていた正二は、遂に、はっきりした声で、
「よし」
と云った。
「じゃ、御褒美にとっとくとしよう」
いかにも、きまった、という明るさで、正二はそう云いながら丁度手のあたっていた峯子のおしりの上のところを、無邪気にポンとたたいた。
「それでいいかい?」
「いいわ」
自然に峯子の返事もされた。
しんから頼りのある安心した、いい心持でその返事はされた。
「きっと峯子もいいと思うよ」
ほんのすこしの含羞《はにか》みを輝いた眼のなかに浮べて、正二は、
「目ざめない湖の美しさのようなものだろう?」
と云った。
「だんだん、だんだん朝の光で展《ひら》かれてゆくのが自然だし、見事だと思う。外部からの条件がかってはいやだろう?」
そして、
「すこし慾ばりすぎるかな」
と快活に笑った。
正二が行ってから時経つにつれて、峯子は、あのとき自分は、十分正二の気持がわかってはいなかったと思うようになった。すこし慾ばりすぎるかな、と簡単なその言葉に、正二は、生死の保しがたい自身を考えていたのだった。峯子は峯子の心の真実に従って自由に進退の出来るよう。更に、この頃生活への理解が急迅に成熟して来た峯子は、正二が自分たちに置いた抑制の意味を、正二のほんとうに男らしい、寧ろ良人らしい深い思いやりからとして考えるようになった。
峯子のひとりの生活をしのぎ得るものとしているのは、開花した花びらが風に誘われるもろさを知らず、未熟かも知れないが、おのずからの堅固さで希望をもって暮らせているのは、何故だろう。
御褒美と云った正二の表現は、あたっている。最も厳粛な意味であたっている。
自分たちばかりでなく、今日の日本に生きる幾多の若い男と女との、真面目な心にもあてはまることかもしれない。
省線の駅から燈火管制で暗い大通りへ出た峯子は、住居へ曲る角をすこしゆきすぎて、もう店先へ水を流している魚やへ一人前の配給をもらいによった。
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
1979(昭和54)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
1951(昭和26)年5月発行
初出:「婦人朝日」
1941(昭和16)年4月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
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