いい塩梅に、どうにかやれそうだけれど」
 黙って微笑んでいるとき子の眼の中に、訪問客の意外さばかりでないぼんやりしたおどろきの色がひろがった。新宿の人ごみの中で良人の坂本と連れ立って歩いている紀子に逢ったのは、僅か半年ほど前のことだが、その頃の紀子と、今日みる紀子とは、どこかひどく違ったところがある。
「お茶もないのよ、御免なさい」
と云う峯子の印象も同じと見えて、
「いかが? お変りなし?」
 そう訊く声に、何かの変りを予想している響がこもった。
「ああ、いつか夕方、新宿でお会いしたでしょう。あの四五日後、坂本、急に新潟へ行ったのよ」
 坂本はある政治雑誌につとめていた筈であった。
「御主張?」
「勤めがかわったんです。今度は何だか伯父のひっぱりで、軍需会社の社長秘書なんですって」
 坂本には、そういう風に時勢への目はしが利くらしいところがあった。
「じゃあなたあのアパートに一人で淋しいのね」
「引越しているのよ、実家《さと》の方へ」
 もう仕事のつづきにかかっているとき子の敏捷な指先の動きに、ぼんやり視線を休めながら紀子は高い靴の踵を床の上で、グリリグリリとうごかしている。
 その様子にも、念入りに化粧した顔にも、自分で自分がはっきりしていないというような表情が漂っている。ふわふわした気質ではあったが、坂本とアパートでエプロン姿でいたとき、こういう雰囲気は紀子の身についていなかった。
 紀子はしばらくして、半ば歎息するように、
「でも、本当にあなたがた羨しいわ。望むとおりに行動していらっしゃれるんですもの、やっぱり才能の問題ね」
「ソラ、おはこ[#「はこ」に傍点]が出た……」峯子はおだやかな非難をこめて、
「まだそんなこと云っているなんて。――紀子さんこそ行動的で皆をびっくりさせたじゃありませんか」
 紀子は、はにかんだように小さく笑って、
「だって……」
と肩をひくようにした。
「何だかこの頃は分らなくなって来ちゃったわ」
 坂本と結婚したのは二年前であった。紀子の生家と因縁の深い金貸の伯父がいや応なく紀子にその縁談を強いているのだと知ると、どうせそんな厭な奴が仲人になる位ならと、紀子は直接出かけて坂本に会い、坂本もその気になって、親たちの所謂縁談の進行にかけかまいなく、自分たちとして結婚してしまった。紀子はそうすることで、その結婚に自分を立て得たと思うらしかった。それを積極的にいう友達も少くなかった。峯子には、そういう風に動く紀子の心理の底までが納得されると云えなかった。
 学校時代から知っていた正二を、新しい感情で見るようになって来ている自分に心づいたその頃の峯子は、紀子の飛躍が却ってすらりとのみこめなかったのであった。
「じゃあなたも新潟へいらっしゃるわけね」
 とき子が、ゆったりした口調できいた。
「ええ。でも当分あっちへ行かないことになってるの」
 紀子はまた靴の踵をグリグリとさせた。
「会社の奥さん連て、とても程度が低いんですって。坂本は、私がそんな仲間に入るののぞまないんですって」
 程度が低いって……。では、私たちは、一体どんな人間たちだというのだろう。
「坂本さん、毎日不自由していらっしゃるんじゃないの?」
「それは大丈夫なのよ」
 紀子は、二年も結婚生活をした妻と思えない単純さで、さらりと答えた。
「素人下宿のおかみさんが、何も彼もすっかりしてくれているんですって。親切な人らしいの。それに、やたらと忙しくって、帰ったらもう眠るだけなんですって。そんな生活では私にも気の毒だっていうのよ」
 顔はあちらへ向けたまま、注意ぶかくそれをきいていたらしいとき子が、居心地わるそうな身じろぎをした。
「坂本は、せめて東京に出たときだけでも、いくらか知識的な空気にふれられるのが、救いなんですって」
「じゃ紀子さん責任が重いのね」
 峯子はそれで思い出したという感情で、
「そう云えば、どうなって? あれ、あなたの女性史の御勉強」
「何しろ、うちは一日中人が出入りしている商売でしょう。土地売買なんかがこの頃はひどく盛んらしいのよ、いればやっぱり当てにされて、図書館どころじゃないわ」
 一重一重と、紀子のこの頃の生活の中途半端なよりどころなさをあらわにしてゆくような話であった。
 峯子は、格別坂本をどういう目でみているというわけではなかったけれども、ただ今のそういう会社の社長秘書という特別な立場と、坂本の生来の如才なさ、通俗的な押し出しのよさ、などを考え合わせると、新潟という土地柄、おそくなる夜の時間がどんなに費されているか、推察されないこともなく思えた。
 ありふれたそのような道を、異ってふんで行く力をもっているとも思える坂本であった。
 第三者としてきく坂本の、妻に対する気持の表現は何か切実でなかった。夫の勤めるところだ辛棒してくれと、つれてゆかれることの方が夫婦の生活として肯けた。
 おだてられ、あざむかれる妻ほど哀れに愚かしいものがあろうか。
 峯子は、紀子のためばかりでなく自分の頬も微《かすか》に赧らむのを感じた。
「紀子さん、坂本さんがそう云ったって自分で新潟へ行けばいいのに」
 峯子は、タイプし上った紙を揃えて綴じながら呟くように云った。
「どっちつかずになったら困りゃしないかしら」
 紀子は少し沈んだ面持ちになって、なお靴の踵を動かしていたが、峯子へきつく迅い掠めるような視線をなげた。
「峯子さんならきっと行っていらっしゃるわけね」
 そして、挑むように続けた。
「峯子さんみたいに、いつも整理された気持でいられる方って例外じゃないかしら。下らない気持なんて、わからないのが当然なのかもしれないわ」
 とき子に向い、
「だって、そうだわねえ」
と語気をつよめた。
「峯子さんみたいにいい方がちゃんとついてらして、自分の才能に自信もあれば、誰だってわりきれた心持でいられるわけだわねえ」
 紀子の声にふくまれている小さい尖ったものは峯子にとって予期しなかった一突きであった。
 ひたすら自分の心の願いに正直であろうと、そのためには我が身をみつめている峯子は、女としてのそういう努力が、女同士の間に一つの反撥をももたせることがおどろかれた。
 正二への心持が、自分を支えていることは、峯子も十分知っているけれども、紀子のような角度でそれを見ていられるのは心苦しかった。
「いろんなことを、紀子さんは考えちがえしていらっしゃるようね」
 それを押しかえして迄云いつのるほど紀子も根深いものをもっているのでもない様子である。
 日夜流れる水に漬っていつか浸蝕されてゆく河岸の土のように、紀子たちの結婚生活が目にも見えず崩れてゆく不安を峯子は直感するのであった。
 その不安は、紀子の気持に、何ということはなくとも、映っているのだろう。不安ながら何をどう捕えてよいか、それがさし当って分別されない紀子の感情なのだろう。
 そう思えば、自分につっかかって来た心持もその動揺の姿として、堪え得た。学校を出てから数年を経た今日、峯子に、一層しみじみとおどろかれるのは、教育というものが、めいめいの人柄に具っているよさ、わるさ、などというものの発露に、殆んどかかわりないという事実である。
 とき子は、薄茶色のスウェーターの片肱を机にかけ、勤勉な手をおとなしくスカートの上に休ませてこちらを向いている。その眼の上には、偶然が、拭いてとることの出来ない隈をつけている。
 親のもとに生活し、良人からおそらくは小遣いを送られ、いい服装をして買物包みを膝にのせている紀子に比べて、それは何と質素な、とるに足りない姿だろう。けれども、何とわるびれたところのない姿であろう。とき子は隈のある顔をわるびれずこの人生にむけて生きて行こうとしている。
 自分とちがった生の姿がそこにあることをはっきりと認めるだけ、現実に即した心持も紀子には欠けているかのようである。
「風が出て来たわねえ」
 帰り仕度をして立ち上りながら紀子が云った。
「ほんとうに」
 止め金のこわれた活版屋の外開きのガラス戸がギラリと雲立った空の太陽を反射させて煽られはじめた。

 吹きつのる風の中に、消えのこった雪が少しよごれてところどころに見える竹藪の横を掠めなどしながら、満員の省線は果なく拡がった市の端れへ向ってまっしぐらに走っている。
 押された勢でそこまで詰ったゆきどまりの窓際へ体をよせて揺られながら、峯子は、何心ない視線に一枚の罫紙をとらえた。それは、ありふれた事務用の罫紙である。書かれているのは報告のようなもので、峯子の肩へ無頓着に時々肱をつかえさせながら、それに目を通しているのは四十がらみの鼠色カラーをつけた男であった。峯子の目をひきつけたのは、その男の風采でもその罫紙でもなく、書かれている文字の感じであった。字は万年筆で書かれていた。そのペン先がいかにも使い順《な》らされて、柔かな幅をもっている、平均に力が入って、くっきりとした明晰な書体だが穏和なふくらみの添っているその字は、峯子に正二を思い出させた。正二もこういう風な字をかいた。一目みた時は変ったところのない中に、何か惹かれるもののこもった字を書く。実際に二つをひき合わせてみれば、きっと随分ちがっているのだろう。けれども、そのペンのあとは、今の峯子に抵抗しがたい思いで正二を偲ばせた。字を見ると、彼の肩つき、声、その声や眼差しの微妙な情緒の動き。生きている正二がまざまざとそこに立ちあらわれるようであった。
 正二が出征してから、峯子はもう幾度か便りをうけとっていた。はるばるとした海を越えて、少し遅れて着くどの絵葉書も手紙も、みんな正二が出征前から使っていた万年筆でかかれていた。いつも変らない字をみると、いろいろな峯子の知らない村や街々、いろいろな予測しがたい出来ごとの中を、正二はやはり紛れもない正二として、峯子に、こんなにも気持のわかっている正二として、経ていることが、云いつくせない、いとしさで思いやられた。
 日ごろの気質が手紙のかきぶりにもあらわれて、正二は、峯子の生活から遠い自分ひとりの感想めいたことなどは書かず、いつも新しい村や城の人々の生活ぶり、ちょっとしたユーモラスな出来ごと、読んだ本のこと、さもなければ、居馴れた場所に季節のおとずれがどんな変化をもたらしたかということなどを話すように目に見えるように云ってよこした。表面に波立ったところのないそれらのたよりは、いつも峯子の心に不思議な作用を及ぼした。峯子は、その手紙をよみ、くりかえしまた読んでいると、いつも心が落ちつけられた。正二が無事であるとわかったからというだけでなかった。手紙にこもっている沈着な柔軟さには、どれだけの精神の包括力や堅忍や洞察や自分への思いやりが裏づけられているかということを感じずにはいられなかった。正二の手紙から息ぶいて来るそれらの感銘は、ひとりでに峯子が自分の感情を持ってゆく、その持ちかたに影響した。峯子もだんだん、留守の正二に向って迸る自分の激情に我ながら足をとられなくなり、その心の波濤をいつくしみながら、正二への手紙には、日々の出来ごとを細かく面白くつたえつつ、そこに自分達をあらわしてゆくすべを学びはじめた。
 峯子はそのことを深くふかくよろこびとした。恋しいひとに、あなたが恋しいとばかりしか書けないとしたら、それは何と味気なかろう。愛す、愛すと、紙が黒くなる迄かいたとして、それで心の生きた響きがどこにあらわされよう。いろいろなことをして、いろいろなことを思って、生きて動いて暮している、その人を互にいつくしむからには、互いに生活の姿をうつし合えないで、どうして溶けあってゆけるだろう。
 峯子は、いつだったか或る明治の文豪と云われる人が、夫妻の間にとりかわした書簡集をよんだことがあった。その本の頁にはびっくりするほど愛すという言葉が反覆されていた。そして、読む者は、夫妻が、この香気の立ちやすい、くりかえせばたやすく倦怠する表現を追いつ追われつして、必死に、同じ言葉をまだ熱いうちにと対手に向って投げかけているような印象をうけた。この熱烈さに
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