として六十歳という年齢は成長期でないけれど、その人間が善意を貫徹して生きようとするならば、善意そのものの永遠の若さに従順となってその成長に応じて生物的限界を飛躍しなければならないでしょう。しかしこれをなしとげたものは歴史上ごく稀です。(まあ、もう十一時すぎよ。どうしたのでしょう。すこし心配になって来ました。最後の電車で帰るのでしょうか、一人でいるのはいいけれども。どうしたのでしょうね、本当に)
十二時すこし前になって、ヤアヤアとかえって来ました。それでもよかったわ、何事もなくて。
けさはゆっくり目をさまして今、朝のおかゆをたべたところです、曇天ね、曇天の土、日、はいやね、あしたの朝こちらからじかに行くのは混雑するから、今夜のうちに帰らなくてはいけないわね。
開成山へ行くのはうれしいけれども帰れないだろうと心配です。切符があっても通交証がなくて。女の軍需会社重役はないから不便此上なしです。ではこれで、おやめ。
三月二十九日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
三月二十八日
三月十四日づけのお手紙、さっき頂きました(午後)。三月二日づけのは、つい三四日前に着き、これは二つへの御返事となります。
きょうは、暖い一日でした。今、夜の八時前。食堂のテーブルに久しぶりでわたし一人。ホーサンを一杯といたビンと、黄色いガラスの瓶に二本の半開のチューリップ。南の庭に向うガラス戸はまだ雨戸をたてられず、月のある柔かい夜気が黒く見えます。廊下の方から室内をみると、夜に向ってしっとりしている大きいガラスの面やテーブルの上の花が、いかにも春宵という風情です。そういう空気を何とも云えずよろこばしいと感じながらこれをかきはじめました。どっさり、どっさりの話があります。先ず二つのお手紙について。
そうね、こうしてお手紙をよむと三月二日ごろはまだ毎晩のように雪が降っていたのでした。お彼岸の日からすっかり春めき、ことしは珍しく明瞭に春の彼岸というものを心にとどめ、わが肌にとどめました。冬はきびしかったわねえ。このお手紙と次のお手紙との間に、梅は咲き出しているのも季節のおとずれです。そして、あなたの赤ぎれもいつか消えてすべっこくなりましたろう? わたしの手もわたしの手に戻りました。アロウスミスわたしはまだです。「風に散る」との相違は、たしかにおっしゃるとおりであろうと思います。そして、ルイスがジャーナリストとしての弱点に煩わされながらも、科学精神追求を主題としている点は、確に展望的です。文学の或る段階では、そういう主題にこころを誘われる作家が生れる程度に文学は前進しているが、そういう前進的テーマに着眼する作家の敏捷さがジャーナリスティックな迅さと相通じ、それが同時に強味で又弱点であるという興味ある現象を示すものと見えます。面白いことね、日本ではまだ科学に到着して居らず、せいぜい名人気質どまりね。横光の発明家みたいに、風格[#「風格」に傍点]愛玩で。この間、鷺の宮で書いた手紙にも出た話と思いますけれど、川端康成の作品など、或る意味で清澄でもあり純一でありますが、何とそのテーマ、芸術の世界全体が主情的でしょう。感情のかげりひなたにとどまって、人間性格というところ迄も切りこんでいないのはおどろかれます。浅薄ではありません、末梢なのね。冬の日向に鮮やかな楓の梢の繊細なつよさの美しさめいたものがあり、植物性ねえ。ほかの同時代人のあれこれの作には、そのような楓の梢の細かい趣、そこにこめられている生命感さえないのですが。康成が一流作家であると考えられるのは、少くとも命をひそめたる楓の梢であるからでしょうが。しかし、日本の文学が、科学精神追求のテーマをジャーナリスティックにでも、文学的にでも、哲学的にでもなく、科学者生活の勇気にみちた現実に立って描ける日を待ち侘びます。わたしが自身の興味をそういうテーマにもっているから猶更ね。一歩踏み出た文学の形態は、小説という過去の枠もあふれ散文の美しさの各面を活かし(評論的にも)しかも一貫した人生に響きわたっているようなものでしょうと思います。科学精神追求のテーマも面白いが、又「米」というような主題を、多角的に描けたら(そのことで即ち科学的に)実に素敵よ。日本の作家として、ね。わたしが小説でこころに描いている二つの仕事の一つは、科学的労働の人とその研究テーマとの人間的いきさつ、結核研究者が書いてみたいの。こういう時代の困難をもしのぎつつある、ね。研究所にガスが出なくなって薪で指をくすぶらせつつサッカリンを作り、それで必要な実験器具を手に入れたりしつつ努力している人物を。それが描けたら、米のような主題の扱いそのもので新しい線を描き得るような作品を。こういう小さからぬ希望のためには、本当に丈夫で、暮し上手でなければな
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