したが、まだ来ていなかったわ。
この間の晩、一時間半おきには起されて、外へ出たとき、床に入っていてすぐ眠れず、うっとりしていて、昔の人の素朴さということを思いました。昔の人は、一筋のえにしの糸、と云いならわしました。そしてそれは紅色と思っていたのよ。だから妹背山のお三輪は采女《うねめ》の背に赤い糸を縫いとめて、それを辿って鹿の子の髪かけをふり乱しました。何となしほほ笑みます。えにしの糸が一筋なら、それはどんなに単純でしょう。一途というのも、とり乱しに高まるのが昔の情の姿だったのでしょうか。えにしの糸の色は無色透明よ、それはとりも直さずあらゆる天地の色をこめているということです。七色八色虹の如く多彩であって、それはあらゆるよろこびと感動とのニュアンスに照り輝きます。或るときは渡る風にも鳴ります。そのそよぎは伝わって光か風かという風に色のすべてをきらめかせ、人の力でとどめることも出来ません。色と色とは云いようなく快い互の諧調を知っていて、ちがった色どりをもってくることは不可能です。その色がそこにあるのでなければ、この色はそこに生じないという、そういう工合の調和です。えにしの糸は、天のかけ橋、虹の色という調子のものよ、ね。しかし、ちっともそれは芝居にはならないわ、壮厳微妙ですから。大らかすぎ、精神において演劇発生史以前ですからね。芝居と講談にならないということは大変慶賀すべきことなのね。西郷南洲はあらゆる芝居と講談と小説のたねにつかわれるが、日本の建設のためにあれだけの仕事をした大久保利通は講談にならない、木戸も講談にならない、これは何事かを語っていますね、と、鷺の宮の小父ちゃん[自注2]の言にしては犀利なり。きょう、ずくんでいられていいお年玉頂いたと思います、ありがとうね。
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[自注1]チジョサン――「中條さん」のこと。
[自注2]鷺の宮の小父ちゃん――壺井繁治。
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一月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
一月十日
さて、例の小机を膝の上にのせ、ああもう三時になってしまった、と思い乍らこれをかきはじめます。けさ、ふと気になってポストを見に行きましたら、入っていました。見ると、一月八日のなのよ。去年のおせいぼ、待ちかねているのにどうしたのでしょうね、未着です。お歳暮のしるしとしてすこしほめて下すったと伺ったからもしかすると、着かないのは余り珍しいなかみで、わたしのところへ来る筈のとは一寸様子がちがう、というわけではないのかしら。(勿論これはふざけ)
昨夜はちょくちょく起きましたが、大スピードで八時に床につきましたから第一回のまでに五時間ばかり眠っていて、あと途切れ途切れでもどうやら、きょうはよく働きました。けさ早く衣料疎開五十キロ五ヶというのを発送しに男が来ます。五時に起きてつらかったけれ共七時すこし過にモンペの紐を結び乍ら二階から下りて来たら、なかの口がパッと開いて朝日がさし込んで、そこを「お早うございます」といい乍ら、その男が這っているの。笑ってしまった。玄関のタタキに荷作りした菰包みがおいてございます。それを中から錠をあけなくてはならないから。
この男は小柄で黒いリスのような眼をしたヒシの実のような形の顔をした男で実に重宝男です。元来は煙突掃除だったのが生来の器用が時勢につれて「世に出て」(その男の表現)今では主として、荷物の世話をして「金に不自由はしなくなりました」荷作り、リアカーの運搬、いかけ、大工の真似、出来ないのはドロの方と植木屋の由。生きたものと、他人のものとには手が出ない由です。器用らしく小さい男で、いいとっさまで、昨今の苦労は、いくらかたまる金をどうしてもちのいいものに代えるか、という問題です。家作も買ったそうですが、これには自信もないのよ、やければ其っきりだから。なかなか面白い話しかたで、八日に荷作しながら「お宅の旦那さまは、いい方ですが、どうして印ばんてんなんか召すんです?」というの。成程ねえ。わたしは台所で洗いものをし乍ら「動きいいんだとさ。あの人は美術学校なんか出ていて、昔あすこの生徒は豚にのって学校へ行ったっていう位だから、印バンテンなんかちょいと着たいんだろう。」「そう云えば絵をかく方なんか、みんなちょいと風が変っていますね。わたしの知っているおとくいの旦那で、社長さんなんですが、うちへ帰ると、きっと酒屋のしめる前かけね、あつしの、あれをかけるんです。旦那又酒屋さんですかっていうと、ああ、これをしめたら暖くてやめられないよ、という話でしてね」そこでわたしが又云うの「下町のひとは、着るもののしきたりなんか堅いけれども、山の手のものは平気だね、めちゃめちゃで」「マァそうですな、かまいませんね」つまり馬崎というその男は、ひどい風
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