ぼんやり見えて居ります。団子坂のすぐ角まで、左側――そちらの方の側は、表からひとかわで止りましたが。林さんという医者の低い煉瓦の門が四角くのこっていて、そこに瀬戸ものの表札がわれもせずきれいにのこって居りました。面白いものね。そういう風にしゃんときれいに表札がのこっていたりすると焼けてもその人の命はつつがないという晴々した感じでした。このお医者はこちらの古馴染でわたしも世話になり、日頃電話局の前だからあぶないものだと云っていましたから気にして居りました、見舞ったら一家無事で何よりでした。
 十二時頃帰ったら昨日はこちらもお見舞の人が多く、国は三十一日までという所得税の申告書きでねばっていて、到頭わたしは手紙もかけず。ですから今日はうれしいのよ。
「指頭花」が氷結したような工合になって居ります。しかし、氷花の中につつまれて、咲いている不思議な可愛い花の姿は又格別の眺めです。忙しくて、びっくりして、火がボーボーで、でもちらりちらりと燦く霜柱の宮のなかに、ちんまりと暖かそうに、浄らかにおさまっている花を髣髴して、いい心持です。詩の御披露までに氷はとけませんけれど。
 二十五日のお手紙に、氷の裡で詩も作れないのが現実とありましたけれども詩の功徳は不思議なものよ。凍っても生きている花の美しさがあるし、詩の生れ難いほどの凍結のきびしさを縫って、猶点綴する花飾りが想われますし。ことしの冬は、氷垂《つらら》のなかにこめられた指頭花ですね。そこに独特の可憐さもございます。

 二月三日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月三日
 氷のとける雪というものもありますね、初春らしいこと。氷ってしまって困っていた水道が雪で出るようになりました。これで喉をわるくしていた人もましになりましょう。でもきょうの風はさむいこと! 真北で。二十八日以来、風向きに気がつくようになりました、西北だったからこそ助ったのでしたから。焼跡の雪景というものは独得な眺めです。
 きょうの帰り、北風特に身にしみたのは、あなたの「もう駄目だね」が相当きいていたのだろうと思われます。駄目だね、はこれ迄も頻りに伺いましたが、もう、というのは耳新しいわ。たった二字ですが。御自分で気づかず仰云ったのでしょうね、気づかずおっしゃった二言に、どんな真実があるのでしょうね。でもマア気にいたしますまい。自分で自分をはげまして、もう、でも、そろそろでも到頭でもいいことにしておきましょう。駄目だね、が実際である以上、自分で其を承認している以上、上につくものへ注文してもはじまらないわけですものねえ。更に明瞭なことは、何がつく駄目であるにしろ、ブランカはやっぱり駄目だねと云われ|に《るべく》あくせくするのですから。
 さて、南江堂の目録は、幸にもちゃんとありました。これを見ると、全くこういう本も出した、という記録品の感じがいたしますね、南江堂のがらん堂については前便で書きました通り、二十九日のお手紙で列挙されている本たちもその影だになしよ。しかし手帖に書いておいて(!)古本やをすこし見ましょう。古本やが用をなさなく成って居りますけれども。目白の先生にたのむときこれらを書いて見ましょう。一冊でもあればいいけれども。それから『営養食と治病食』。見つかりません。病気関係の本は一まとめにして一つの本棚に入れておいたのですが、どうしたかしら。自分で売ったりはいたしませんから、いなかった間にまぎれて行ってしまったかしらと思います。
 もう一度さがして見ましょうが。御免なさい。
 ブレブロールはそちらへ一ビン行っています。二度目と思ったのはポリタミンとごっちゃにした記憶でした。肝油は一ビンとってあります、大切にして。あとは目下品切れの由、きょうききましたら。品切れで閉口いたします、何も彼もだから、やりくりも遂につまってしまいます。
 エビオスの定量。あれは酵母剤で、そんなにむずかしいものではないらしいのですが、今もしもと思って買ってある粉末のは一日三グラム以上とあり、粒にして六粒―十粒ぐらいのものではないでしょうか。栄さんは愛用者で十粒ぐらいずつのんでいるようです。腹工合のさっぱりしないときは、すこしよけい、という風にしているようです。ビンに書いてなかったでしょうか。大体ああいう薬は、早くなくなるといけないという商売的用心から一度に二粒とよく書きますが、そういうときは、あんな性質のものは十粒(一日)ぐらいでいいのではないかしら。御自分の工合でいいのではなくって? のぼせるものでもないのだし。
「動かぬ旅行者」というのは適切だと感服いたしました、そして熱帯と寒帯とを通るということも。「絹の道」「北極への道」人類が雄々しく踏破した道は幾多ありますが、歴史は動かぬ旅行者の歴史から歴史への道というものを出現さ
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