昨日で終りました。マアこんな風で、ブランカも恙《つつが》[#「恙」は底本では「※[#「恙/虫」、527−5]」](妙ねすこし)なかったことをおよろこび下さい。机の上に、内科読本など揃えてそのままとんでは哀れを止めてしまいます。
二十五日のお手紙、ありがとう。一昨日頂きました。あなたのお手にも紅糸綴りが出来ましたって? まあ。ねえ。ことしはあなたが瘠せていらっしゃるばかりでなく三十年来の寒気の由です。そのために、どこもここも凍りついて水道のパイプはこわれるし、直す資材はないしこちらなんか大不自由して居ります。十年ぶりに起きておすごしになるにしては愛嬌のなさすぎる寒中です。残念なことです。こう凍りついてキンキンかたいと、春ある冬の詩趣だけでお暖り下さい、と思うには、ブランカもすこし人間くさくて空々しいほどの詩情は披露いたしかねます。そのくせ、つくろい物はのろのろおっかけというのではどうも器量が上らないこと夥しい次第であると思います。手袋もそんなでは何とかいたしましょうね。変に指をひっぱってはめたようなずらしたような工合にしていらっしゃると目につきましたが、おそらくあれはつまり指先は持って生れた皮ばかりという手袋になっていたのだったのね。
さて、こちらの留守番の人夫婦。他人と棲むとしては申し分ないとすべきと思います。〔中略〕面白いことにね、この節の暮しというものは、元はよく、ホラ、御飯だけ炊いて貰っておかずは各自という共同生活がありましたろう、あれがこの節は、おかずは一緒で御飯は別なのよ。この間うち、朝起きて顔をみるやどうしてこう御飯が足りないんでしょう! と頬っぺたの赤い、がっしりした細君が訴えるの、そちらへ行くというその朝の忙しさの中でさえ。寿が、十五日にこの二人が来ても帰らずずっといて、あの人が又お飯好きです、それでぐっと食いこむのね、そこで、御飯は別々ということにして面倒でもこちらとあちらと炊くのよ。そしたらすっかりそういう煩悶も解消で工合よくなりました。〔中略〕しかしこうして他人が来ても、前もって居るという話になっていないあの人がいるという点なんか、ぐーっと押しで無視して、こんどは用のない人の粘りで粘られるから、わたしのような人間は業《ゴー》が煮えます、キモがいれます、島田の言葉で申すと。わたしは自分のしたいこと、手紙かくことさえ時間がない暮しだのに、〔中略〕
さて、きょうは三十一日になりました。朝八時すぎにこうした手紙をかきはじめるというようなことは珍しゅうございます。けさ八時に国が富士というところへゆくために出発したのでこんな時間が出来ました。
きのう(三十日)帰りに三丁目から南江堂へまわりました。あのひろい間口の店が半分だけになっていて、本と云えば全くあの棚にチョビリこの棚にチョビリで埃だらけの台に雑誌が並んで居ります。衛生の部には工場能率増進についての本が二三冊、営養関係の本と申せば乳幼児に関するものだけ。お話の外です。国民服を着て奥で喋っている男に訊いたら曰く「さアわかりませんな、この頃ちっとも扱いませんから」そこで別送の雑誌一つ買って一円七銭のところを五十銭出したら突かえして「こまかいのありませんか。雑誌なんかおことわりしたいんですから」という挨拶です。びっくりしてしまいました。自信がないのね。医者の本を扱っているくせに学問の恒久性というものがちっとも分っていず、商売[#「商売」に傍点]のつまらなさでくさっているのね、こんな代表的な本やでこんな人間が今の時期店番をしているということは一つの恥辱の感じがしました。本を買いたい人は、呉服屋へ行くのじゃあるまいし、熱心に探求心をもっているのですから。そのくせ、その男は奥じゃ変に亢奮して飛行機のおっこちたときの話かなんかやっています「映画にある通りそっくりですな、こう」と手真似してね。実に今の下らないタイプをまざまざと見学いたしました。仕方がないから向い側のやっと開いている一軒古本やへまわって見ました。やはりありません。金原の、あの叢書ね、あれの腸間膜の病気についてのが売れのこり、小児の梅毒か何かの本があり、歯科の本があり医事年鑑などばかりです。何とも手のつけようのない有様です。さがしても見ましょうが(神田辺を)目白の先生にたのんで見ましょう、何かあるかもしれません。そしてこちらの営養の本を見つけましょう、仰云っていたのを、ね。本のないこと、本のないこと! 一寸通って御覧になってもあの通り街の店の八分通りはしまって居りますものね。
それから肴町へ出て、非常線を通して貰って焼あとを通りました。相当なものです。東京からみればそれは一部に軽微な被害ですが、界隈に住むものとしてはつよい印象です。鴎外のいたところもどこも分らなくなっていて、煙の彼方に根津かどこかの樹立が
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