護観察所が、札幌の同じ役所へ紹介をくれました。先ずそこへ行って相談してからそちらに行く方がいいのですって。つまらない紛糾をさけるために。地方は人が尠いから目に立つからそうしないといけない由、その通りにいたしましょう。今は特別なときですから。そしてわたしは誰にも触られずに単純に暮したいから。そちらの様子は皆目存じませんからね。わたしとしても参考が必要です。鈴木義男弁護士に札幌の斎藤忠雄という弁護士に紹介を貰いました。この人は土着の人で信望のあつい物わかりよい人の由、相談にのって貰える人のあるのは心づようございます。わたしは、三つ迄札幌の農大の中で育ったし二十代には永く逗留してあちこち旅行もし宮部金吾さんや総長だった佐藤さんとおなじみでしたが、この頃の様子はすっかり変ったし自分の条件も変化して居りますから、やっぱり話のわかりいい筋の紹介が入用でしょう。
どこに暮すのか、珍しく又茫漠とした感じです。でも北海道は、いいわ。結局は一番ようございましょう。暮しいいでしょう。スケールの大きい生活だけに暮しいいと思います。
そちらはわたしの覚えではからりとして虫の少いところですが、いかが? 痒いことの少い夏をお過しになれたらと思います。皮膚もサラリとした感じでしょう? そして、又今は白夜でしょうか、もう過ぎましたろうか、それともその辺は違うかしら。わたしたちの生活図譜も時様々ところ様々にくりひろげられて、風景の多様さから云ってもなかなか大したものねえ。大きい歴史の時期に殆ど壮大な風景の中で過すということは。何か内部的な調和さえあります。
わたしたちの眉宇はかくていよいよ晴れやかなりと申せます。
実際今年に入ってはじめて安心とはこういうものか、と思うようなこころもちよ。どんなに安心したでしょう。
七月二日には巣鴨へ行こうと計画して居りました。二十八日かに、開成山から使のついでに返送されて来た手紙(十六日に出した方)が来ました。はじめ切手不足だったのかしらと何心なく見ていたらそちらに移送とあるでしょう。まアとぽけんといたしました。二日に、二日にと思って心の首をのばしていたでしょう、ですからのめるような風で。気がぬけたようになりましたが一晩経ったら、よかったという心もちがはっきりして来ました。中途半端でないのがいいのでしょうと思ってね。さて、それなら自分も行くのだが、北海道、北海道、いくら考えても目に浮ぶのは札幌のアカシヤの並木や美しい植物園の緑の風景、父の建てた道庁や大学の姿です。そちらの方はブランクなのよ。本当に変な遠い遠い気もちがいたしました。それから地図を出してよくよく眺め、人にきき、紹介貰いに歩いているうちに、そちらの町もリアリティーをもって来たし自分のゆくこともたしかに納得されて来て、もう大丈夫よ。一人でゆくのが大変ですが、さりとて適当なおともも見つかりませんでしょう。ごく簡単な荷物で、能率的に組合わせて身軽に参りましょう。そう云っても寒いところに行くのだからかさばるわねえ。何年ぶりかで零下何度の冬を迎えるのはたのしみです、そちらのマローズはどんなでしょう、あんなに太陽が照ってキラキラかしら。
自分のいるところに自分のこころもあるというのはいいこころもちよ。わたしはもう十何年か、東京を体がはなれているときはいつも心ばかりそちらにのこっていて、しんから楽しい旅行などしたことがなかったわ。これからは、そういうことがなくなりましょうし、そこの辺を旅行したにしろ、丁度子供が外を歩いて来てああちゃん牛がいたのよと報告するという工合に、ここはこんななのよ、マアこっちはこうよという風に話せるでしょう、そしてそういう話もふむそうかとおわかりになりましょうしね。いいわ。そちらは、暗く重い東北よりもわたしの性に合います、わたしのジャガイモ好きから丈でも。わたしを育てたのはゲルンジーの乳牛ですが、ゲルンジーは今も居りましょうし。あなたが全く新鮮にそこの環境を吸収していらっしゃる様子を想像いたします。そしてさぞ感想は多くその共感を求め表現を欲していらっしゃることでしょうと思います。万葉の歌人たちは「古今」の歌人と比較にならないほど旅を大きくして居ります。しかし陸奥どまりでしょう、津軽の海は未知の境でしたと思えます。ましてやその辺は。日本のうたはそのあたりにも拡げられました。そこに美しい詩もうたも在るようになりました。面白いわね。関先生の折紙によって、一かどの歌人でもある由のわたしは、今にそこで、いくつかの秀歌をつくるかもしれないわ。そして一生に一冊だけは歌集も作ろうという空想も実現するかもしれません。ちっとも淋しくない寂しさ。ゆたかなる寂寥というものは生産的よ少くとも文学にとっては。そちらでの生活をたのしく想像いたします。人口がまばらだということも
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