昼飯のとき太郎が(もう五年よ。すっかりこっちの言葉になり、東京の子に見られないふっくりした少年となりました、)お父さまア(と、こっちのアクセントで)こっちさ来て商売は何なの? 商売はないよ、お前の学校の先生になろうか。先生になんだら田植しなくちゃあ。お父様だったら作業みんな良上にすんだべ、からいから。わたしがきいていておやじの点のからいというのが分らないのよ。何故さ、そんなに耕作が上手なの? そうじゃねえけんどさ、子供だから其以上説明出来ないのね。含蓄多き会話です。
 四つの健之助はまだ幼児で丸い頬をしてすこし泣きむしでおやじに大いに差別待遇をうけゲンコも貰います。妙ね、くちやかましいし閑居して不善をなすの口で、ひる太郎が神経バカ誰? と云っているのよ。こっちでは気狂いのことを神経って申します。そんなものいないよと私が云ったら、太郎が居んだと笑うの。誰なの? するとなお笑って健坊がそうきくと、健ちゃんと返事するのですって。それを親父が教えたのですって。咲が、そういう点じゃ問題になりゃしないのとひんしゅくします。止めさせる威厳がないのね。そしてそういう威厳があっては妻となっていられないのでしょう。わたしは健坊をつれて客室の方へ来て掃除をしながらおどります、手をふって。健坊も大よろこびでおどるのよ。気がからーりとするらしくて健坊はすっかりいい眼つきになります。おばちゃんよウと呼ぶのよ。ああちゃんよウ、兄ちゃんようと。泰子は全く泰然よ、仰臥したまま七歳となりました。そして健ちゃんは赤ちゃんだと思って、泣くとあやしに行きます、しかし連れられて自分も泣き出すの。話がわかるのよ。お名前は? というと、ナカジョウケンノスケと片言で申します。みんなナカジョウよ、こちらでは。
 この九日頃、おみやさんという七十何歳かの老女がここで死にました。この女のひとの一生もきのどくなものよ。でもね、従妹ベットにしろ生活力の明瞭な意力の通った女の生涯は同じ孤独にしろ親類のかかりうどにしろ物語りになるけれど、このおみやさんというように意志がないようで一生気の毒に過した女の生涯は小説にさえならないのね、植木の成長と枯死のようで。日本の女のみじめさの大部分は、少くともこれ迄はこういう工合だったのね。自然主義時代の小説がひととおり書いたらもうおしまいという位の内容のおくれかただったのね。これからの女の暮しはそうは行きません。ペンにしろ、良人はルソンです。この何年か散々要領[#「要領」に傍点]で立ちまわった揚句、要領果てと申せます。ペンはその惨憺の意味を感じるにしては小さい人間ですが、其でもこの頃は、もっともっと大きい淋しさのためにうんと準備しなけりゃならないと思うわと申しました、今の淋しさに比べてね、絶対の喪失に対してです。そうでしょうと思います。この人たちの場合は。だって、要領よく立ちまわったつもりで、余り目前で細かく立ちまわって一まわりしてあっちへぬけてしまったのですものね。もともこもなしだわ。要領なんて何ときびしい返報をするでしょう、人生は嘘を許さないと思います。
 明日帰って一週間か十日猛烈に忙しく、又手紙もさし上げられまいと思います。
 わたしは毎日少しずつ手紙かこうと思っていたのよ。日記として。そうしなくては一ヵ月が長すぎて。ところが昨今の暮しは一ヵ月の長い感じはそのままのくせに、一日がやたらに疾走して、朝から夜まで事、事、事、でつまってしかも其は、田舎から人が突然来た、荷物をたのむ。急に切符が来た、じゃあ荷物をとって来なくちゃ。そういうことで。こっちへ一応来たらばこれはすむでしょう。わたしは予約したのよ、もうこれ丈うちのために骨を折ったんだから二ヵ月はバカにならせて貰うからって。寿は信州追分の方へ行くかさもなければ青森の方へ行くかするそうです、わたしと一緒に暮したらいいのに。或はそうなるでしょう。七月十日頃までには、いずれにせよ必ず動く由。こちらへ来る前電報して会ってきめさせました。たった四十円しか全財産もっていなかったのに切符と一緒に新橋の駅のスタンドで本を買っていて財布を下へおいてとられちまったのよ。そういう気分でいるから行くところも手おくれになるのだと例のわたしの小言が出ました。
 本気になっていず、何となし斜にかまえているからなのよ。其だけが一応全部であるけれどもあとにはまだ、という気があるから其が隙になってとられます。小事の如きだけれど、寿の半生は、其でいつでも後手ばかり打って来たのですものね。怒濤時代にあんなささやかな者が自分だけポーズして其が何であり得ましょう。ことしはノミ、蚊、蠅ひどくてあわれブランカはボツボツよ。

 六月十七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 福島県郡山市開成山より(封書)〕

 六月十七日 開成山。
 ここでは、夜のし
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