いう人間は、人生に迷って不幸から脱却したいとき、結婚するか賭博者になるかパレスチナへゆくか三つに一つと考えたのだそうです。そして、一つを選びその細君と結婚したのだけれども、最後の「悪霊」は実に意味深長な作品であったと沁々思います、そういう点にふれての彼の伝記はホンヤクされているものではありません。トルストイは矛盾だらけにしろ、そういう仕事はきらった男でした。その一つの点だけでも彼の人間はしゃんとしていたと云えるでしょう。
 きょうは、もう十日(月)です。きのうは国が家にいて、台所の天井の窓のガラスがこわれていたのを直したり、カマドの灰かきをしたりしてくれました。ガラスがこわれたところから雨がバシャバシャおちて、タライをおいても洪水でした、下駄ばきで台所やって居たから直って全くさっぱりしました。
 三十一日にひとりになってから、十日経ちました。段々手順が分って来て、大体朝七時半ごろから十二時すぎ迄で一かたつけて午後は四時間ほど、自分の時間にしようとしてやって居ります。家のことを四年しなかったうちに全然様子が変ってしまいましたから、今又台所やるのは私に或はいいことでしょう。配給の様子も一つ一つはっきり分るし、不如意な中でやりかたも覚え、これから更に不便な生活をしなければならないためのケイコに有益です。台所も何となし自分の息がかかるとよくなって、今棚の上のコップには可愛い「ぼけ」の枝がさしてあります、台所をさっぱりと整った優しいところにするのは大切ね、女のひとの一生は一日少くとも十時間は台所で暮さなくてはならないのですもの、お目にかけられないところとする日本の習慣は間違っていると思います。そこへ友達も来て、何か働いていながら話もし、本でもよんでくれていいところだと、どんなにいいでしょう。そして女の馬鹿になるのが防げます、湿っぽい、面白さのないところで一人でポシャポシャやっているとき旦那は火鉢に当って談論風発で、十年経つとあわれこれが女房かとなってしまうのね。御用ききというものが来ないのは至極ようございます、今の暮しは一日に七八人のお客ということもないし、疲れすぎないコツを会得して、やれそうです。眠り工合がちがって深く深く眠ります。きのうは傘さして菜っぱをとりに湯島一丁目まで行ったら、私なんか力のないこと、一貫五百匁ほどの包みでフーフーで咳が出る位(ドキドキするから)でした。自転車にのれたらと思います、でも目が不確かで速力が不安なうちは駄目ね。
 あなたが家事衛生のこと、おっしゃっていましたが、こんな実習[#「実習」に傍点]がはじまろうとは思って居りませんでしたね、お互様に。こうやって見《いて》てつくづく自分もいろいろの生活で、こなせるようになって来ていると感じ直します、つまり苦労して来たのだな、と思いかえすようなところがあります。そしてそれは自分の実力ということで感じられるのはうれしいと思います、女中がいない、忽ち上ずってしまう、という生活力では情けないわけですから。でも心もちは意地わるいものね、こんな暮しがはじまると、何と勉強したいでしょう、じっくり腰をおちつけて物もよみたいと思う気が切々です。それが困るが、大体からいうと、人的交渉から苦しい刺戟を絶えず得ているよりも、この方が体のため[#「体のため」に傍点]には悪くないかもしれないと考えます、体がこの位くたびれると机に向って根のつめる仕事は出来ません、読書にしても、これが永続しては、やはり私として本末の顛倒した生活ということになりましょう。国の方は防衛局の仕事がなくなると同時に事務所もとじる計画らしいし、仕事のなくなるのは防火壁をこれからこしらえたってはじまらないという時期が来ればすぐなのだし、どこもかしこもそんな風な日暮しですね。
 寿は長者町に落付く由。それがいいでしょう、わたしがこんな暮しかたをするようになったら、長者町に落付く決心をして、なかなかこまかく考えを運んでいると思いますが、私として、当てにしていないのだから、結局落付いてくれる方が安心です。姉のこころ妹知らず式のところもあって。わたしは一家の中で殆ど術策を弄さない唯一の人間よ、生活の運びで。私のよろこび、わたしの苦痛、わたしの貧乏、それは天下御免で大っぴらで、弄すべき術策を必要といたしません。それは今日にあって大きい幸福です、自分の性根をこの間《カン》に腐らせないでゆける道ですから。Sが人相が変り悲しゅうございます。抜けめないところばかり出ている顔して歩いていて、往来で会って、その人と思えないようでした。ダブつき条件でだけ出来ている鷹揚さ、ひろがりなどというものは、何と急速にはげてしまうでしょう。気くばりと抜け目なさだけの顔してむこうから歩いて来るSを見ると、胸がいっぱいです。あのひと鏡もってるのかしら。人は折々
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