カラリとして、ふと気がついて見たら、咲がどうしてあんなに遑《あわ》ててけとばすように、今この勢という風に行ってしまったかが忽然として会得されました。一種の逃避だったのね。
 三十一日に手つだいのひとも居なくなり、わたしと国男。国は三十一日に汽車の都合で帰ったが、その晩は私が留守だったというので友人宅へとまり二日にかえり、三、四、五とよそへ泊って昨夜久しぶりで在宅。私は、丁度こちらへ引越したり病気したりした間に、配給の様子が分らなくなっていたから、急に全部一人でやって大疲れです。おとなりの人たちがよく助けて下さるのでやれますが。でもこう思っているのよ、どこで一人で暮したりするにしろ、やはり同じくパタパタで、しかも手助けしてくれる人もないのでしょうから、これが今の市民生活の実際だと思ってね。朝七時におき御飯のことして、それから国がダラリダラリと仕度して十時すぎになってやっと出かけます。今日は、そしたら手紙とたのしみにしているところへペンさんね、あれが来て、やはりきいてもらいたい愚痴。でもそう云って笑いました。この頃は二円のクリームに三円八十銭の不用な香水をつけて買わされるのだから、ひとの境遇にも同じようなことが起って、わたしだって巣鴨へ便利で市内で、電話があって、余り危険でないという住場所の必要のために、此だけの辛棒しているのだから、あなたもそう思いなさい、と。そんなものね。
 余りむしゃくしゃしてたまらないと、気つけ薬をかぐように、あの万葉のうたを思い出します。それは新鮮で、いい匂いがして、生々としたそよぎを送ります。自分に向って、かざらしの小百合よ、と思うのよ、いまのまさかに、どんな顔して気持でいるのかよと思うのよ。
 この三四ヵ月の間の私の手紙を並べて思いおこしてみると、世相と共にこういう難破船の崩れてゆく速力のはやさがまざまざでしょうと思います。去年の秋ごろ、先ず細君という積荷の繩がきかなくなって、甲板の上をズーズー、ズーズーと大すべりにすべり出し、寿江子というものが到頭船から落ち、最後に、私が、しっかり荷ごしらえしているために辷り出しはしない代り、船の大ゆれの最後にのこった形です。
 誰も深くその経過を省みず、考えず、ただ心理的に行動して、疎開とかいろんな名目で云われ、とりつくろわれていますが、本質はこういう地盤と条件の生活の急速な消滅の途です。処置のようだが実はその域を越して居ります。
 そういう空気の中ですが、けさは小さい畑にホーレン草の種子をまきました。あしたの朝は不断草というのを蒔きます、朝の落付かない時間の仕事にいいし。
 この頃は省線小田急なども時間で切符制限して居り午前六―九。午後四―七は通勤人でなくては駄目。汽車も回数券はなくなり、定期も通勤証明です。千葉の往復も大変になります。
 この次の手紙は程なく書き、そして生活にいくらか上手になったことのわかるのを書きたいと思って居ります。

 四月十日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 四月八日
 もう梅雨のような雨でした。大笑いよ、わたしが朝飯前に畑へ種子を蒔いたりしたから忽ちだ、と。けれ共いい工合にこの位の雨であったら蒔いた種子が流れ切ってもしまいますまい。あんまり黒煙濛々たる手紙さしあげたから、すぐつづけて、マア其なりにどうやらすこしずつ手に入って、台所で煮物の番をしながら本をよむ気にもなって来たことを御報告しなければ相すまないと思いまして。
 台所用の本(!)はトルストイとドストイェフスキーの細君たちのメモアールを集めたものです。やっぱり夫婦はこういうものなのね、トルストイの夫人はギクシャクなりに文章や考えの構えかたにスケールがあって、跛ながら旦那さんの風をついていますし、ドストイェフスキーの細君はひどく素直で、わたしわたしというところがなくて、書きかたは御亭主の小説の成功した部分のように一本の糸の味のあるうねり「貧しき人々」などの味に通じたところがあります。トルストイの細君はおそろしい位良人の内部を理解して居りません。こわい、熱烈な、大きいとさかの牝鶏よ、どっさりの子供を翼の下に入れている意識で牡鶏に向ってわめくところがあります、ドストイェフスキーの細君は、つつましいと表現され得る女のひとであるらしい様です。でも、今、一八七二年のこと、という章をよんで、胸うたれ、これを書きたくなりました。この年はドストイェフスキーは「悪霊」を書き終り、それによって彼のスラブ主義を完成したのですが、『市民』という月刊雑誌を或る公爵の出資で出しました。それの仲間があの有名な日曜日を仕組んだポベドノスツェフだったのですって。それを細君は、こういう人達と働くことはドストイェフスキーにとっても魅力のあることでした、と何の罪なく書いて居ります。ドストイェフスキーと
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