ったわ、今夜はたのしみです。
 それでも赤い御飯がたけ、珍しく配給の豆腐のお汁が出来、配給の魚の名は妙な名で、オマエみたいな名ですが、頭つきで大威張りの焼き魚でした。
 よみはじめる本[自注4]、島田へゆくまでに三百余頁だから終りたいものです。
 十日に書いて下すったお手紙ありがとう。きのう、十二日、着。お手紙の趣しみじみよく分ります。だからわたしもせめてきょうからは、と埃まびれにもなった次第でした。そうです、全く非人間的な現象が人間らしいものとなるのは、上塗りのコテ工合でゆくものではありません。孜々《しし》として勉学する、孜々として勉学する、ここに無限のものがあります。この頃はね、私がこういう生活しているせいかもしれないが、作家の誰彼が、どこでどう生活しているのか、ひところのサロン的彷徨出没がなくなったから普通の人々は全く我れ関せずのようです。宇野千代が、日露戦争秘話という本かいているようですね。そうお。あのひとはやりてなんですか。そんな工合です。所謂作家生活が崩壊したスピードは大したものね、この一年足らずの間に。特に最近の半年足らずの間に。吹きちらされたようにどこかで、どうにかして何年かすぎるのですが、さてそれからふたの開いた時が見ものというも余りありでしょう。もとのような意味や形で、作家でございと云ったところでああそうですか、でしょう、この頃は。横光利一はもう二度と大学生の神様にはなれません。作家気質がふっとばされて、銀座界隈、浅草あたり、亀戸新宿辺から消散し、さてその先はいかがでしょう。大したことです。何人の古参兵がのこるでしょう。高見順は日本の製靴業の歴史みたいなものを研究している由です。西村勝三[自注5]という先達者が西村伯翁の弟で、古田中夫人の父です。この間「白藤」かいたこと申しましたろう? そしたら良人が大変よろこんで礼をよこし、西村勝三にもふれているのが面白いし、高見順をよんで子供たちが父の話をきくことになっているとか云ってよこしました。高見順の方向は愚劣でないが、その靴と日清・日露がどうからみ、且つ今の当主西村直は大金持だが、そういう昔話の集りなどには出ても来ないし、よびもしない。おっかさんは廃嫡して谷口となっている息子の方へ暮しているというような現実の面白さまでを、どう靴からくみとるでしょうね。「白藤」へは、性質上かきませんでしたが、母が話したことがあります、「品川の伯父さんは、あれだけの人物でいながら、妙なことを云ったことがあるよ、よっちゃん、おじさんが一生御恩にきるから何とか大将のところへお嫁に行っとくれ、って。後妻だったんだよ。何のつもりであんなことをたのんだんだろう。ことわったがね」。高見順の靴物語もここに小説があるのですがね。バルザックは少くともここいら迄かけました。作家の勉強の大変さがこの一つでも分ります。プティ・クローの仕事をあすこまで学ぶということの意味。作家の資質は飛躍しなければならず、大いに空語でない努力がいります。これらすべて面白い、悠々とした希望にみたされた文学的展望でしょう? 一刻千金というところね。ああ私には今ここをおよみになった瞬間に、あなたの口元に泛んだ苦笑が見えました。こうお思いになったのよ、ブランカ! わかったように云っている。もっともこのことは分った話だが、ね、と。そうね、こうやって読まざるを得ないあなたに、わたしが満々たる計画を語って[#「語って」に傍点]いたところで、いくらそれがあなたにだと云って、やはり筆舌の徒に陥らないということはないわけだわね、こわいこと、こわいこと。では、さようなら。小さき一つの実行にとりかかりましょう。しかしね、あなたに語るということは、やかましい神様に立願したようなもので、自分を自分でしばることになって、万更無駄でもないのよ。空気に向って語られたのではなく、それは精神に向って語られているのですもの。

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[自注4]よみはじめる本――マルクス・エンゲルスの原典。
[自注5]西村勝三――西村伯翁の弟。
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 二月二十一日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二月二十一日
 おとといはおもしろい雪でした。わたしの心もちでは、まるで咲き開いた花のあつい花びらの上にふりつもった白雪という感じで、全く春の雪でした。
 そちらではいかがな風情でしたろう。こちらが花びらの上にふる雪と感じたら、そちらはゆるやかな芝山のまるみを一層まるやかに柔かく見せる雪景色ででもあったでしょうか。若木が深い土のぬくみを感じて幹を益※[#二の字点、1−2−22]力づよく真直に、葉を益※[#二の字点、1−2−22]濃やかにしている枝々に、しっとりと重くふる雪でもあったでしょうか。
 木の幹の見事さや独特な魅力を思う
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