ムかけたあの物療室でレントゲンとって貰いましょう、そして午後はそちらへ行くの。そしたらいい子ですね、この決心はもうつきました、駒込病院なら、遠いとはさかさになっても云えないし、あすこにレントゲンはないとは云えないしね。そしてすましてしまうとさっぱりするわ。一人のときが、午前は泣きなのよ。うちの国先生はダラダラ出勤で、桜田門へ出かけると云ったって、やっぱり自分のテンポは同じですから。こんや九時に眠り十一時間眠りとおしたって八時よ。御飯たべてから十二時迄に三時間はあるのね、あした行けないと云えるでしょうか、でも午後のギリギリガーガー思うとへこたれだけれど。火曜日に、もう行ったのよ、と云ってみたいという子供らしいところもあります。
この紙が十枚で二十銭よ。アテナインクは二オンスずつのはかり売りです。しみる紙に紫インクしかなかったところを思い出したりいたします。
五月七日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕
五月六日
今、夜の八時すこし過ぎたところです。いい月の夜となりました。いかにも新緑の季節の満月らしい軽やかさと清澄さで、東の風がふいているのが、それは月の光のうごきのようです。こんな時間とこんな眺めの時刻に、二人暮しがはじまったのよ、この土曜日は。例のとおり食堂の大机です。白と碧色の格子のテーブルかけや、からりと開け放された南側の石甃やそこに出してあるシャボテンの鉢のふちをきらめかして月の明るさを告げている小さい光りや。柔かく新しい葉をふく風の音は、こころもちようございます。赤いものといえば、つつじの花ばかりですが、緑、白、碧と月光との調和は絵画的です。
甃のところに下駄が一揃出て居ります。その下駄に月の光があります。私は落付いて、のんびり、一人の夕飯をたべながら、その下駄の方をちょくちょく見ました。それは男下駄です。自分の待っている人の下駄に、こうして月がさすのであったらば、どんなでしょう。それは跫音や声や視線や、一寸したしかも特徴的な身ぶりまでをいとしく思い浮ばせる不思議な力をもっています。
こんなに隅から隅までが静かで、しかもこころもちと五月の自然の充実が満ち満ちて感じられる夜は、何と面白いでしょうね。二人ともあまり喋る必要がないようね。あなたの二つの眼がそこに。そして、わたしの二つの眼がここに。それでいいという風ね。
きょうは、午後三時から、私たちきりだったのですが、六時すぎまで歯医者のところで握った掌に汗をかいて来たのよ。夕方の街を歩いて、いつもの古本や見ます、歯をがりがりやった気持があまり閉口だから。きょうは、リルケの果樹園という詩集と、レンズのツアイスね、あれのガラス工業の完成に着手したルネッサンス頃の祖先の歴史をかいた小説見つけました。お金が足りなかったから、月曜日、歯医者のときとることにしました。お読みになれそうなものです。そういえば、活字のグーテンベルクの伝はまだおよみになって居りませんね、一度よんでよいものです。
そして家へかえると、犬が躍り上って歓迎します。躍り上る犬は女の子だのにさっぱりとして快活で男の子めいていて気に入って居ります。その次の仔が出来てね、その仔ったら又真黒と真茶のコロコロの本当の犬っころです。まだ縁の下にいて、さっき北の中庭の木戸の中にいるのを呼んだら、熊がウンとかワンとかいっていそいで引こんでゆきました。その丸さったらないの、全く今時、こんな仔犬は珍しいわ。きのうだったか、さすがの主人公が小さい声して姉さん一寸、一寸と手招きするから行ったら、可愛いよって。そういう位可愛いのよ。健之助がいないからこんな仔が可愛くて。家鴨の仔を買いたいけれど、餌が大変だというから考慮中です。熊もクリ(栗)も、到って器量がわるくて、又その不器量さったらないのも大笑いです。
わたしが、本好きであるということは、畑にとっての不幸事です。やれ、と腰かけるでしょう? わたしは絵の本を見るか、何となしものを考えているの、で、一休みしたら、小シャベルもって出かけるという風にゆきません。ですからわたしの畑は大陸的になって、日本の集約耕作とは行かないわ、ちまちまちょこちょことは行かないのよ。これは家庭園芸には欠点で、マメであるか慾ばりであるかする女がいなくては駄目そうです。天地の勢に一任していたのでは、そこがせち辛くなって来ていて、うまく行かないらしいのよ。こまりです。畑いじりつつ、ものを考えるほど畑仕事に習熟していないというのも事実ね。台所はすごいことになって、一旦その気にさえなると、御飯の仕度が出来上ったときは準備でちらかっている台所が片づいているという上達ぶりです。わたしは国男さんにきょうも申しました、「国男さんが一番得しているのよこんなにゆっくりした、仕事に追われない気分で家のことを
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