違えなく。
ユーゴーとバルザックとを並べよんで、非常に有益でした。バルザックは柱頭《キャピタル》のない大柱列のようね、しかもその柱はびっしり並んで太くて比較的柔い石の質で、彫刻の刻みめの深い彫りかたで万象の物景がうごめくように彫られています。が、ギリシャの柱列にある柱頭はなくて、従って、天はすぽぬけで青空よ。そこのところが我ながら妙な工合だと見えて、バルザックは、そこのすぽぬけのところを神秘主義でふたして居ります、人間の昇らんとする欲望、より高からんとする意欲、それはさすがにあれも男の中の男にはちがいないから、直感したのです。ユーゴーはそれを人間の社会の中にかえって来る精神において理解し得たけれども、バルザックは其はそれときりはなして精神の問題[#「精神の問題」に傍点]としたのね、だから人間喜劇の中に哲学的考察という銘をうった作があって、其は今日でみれば史的研究でありますが、バルザックはそこにつけ足して、何だか彼のリアリズムで包括出来ない現実の部分を、錬金術師の長広舌や降霊術やにたよっています。
カトリーヌ・ド・メディシスね、あれは三部からなっていて、彼女が王権のために我子もギセイにし、ギルドのくずれかかる時代の新興市民にたよる過程など実に堂々としているくせに、最後の部ではカトリーヌの霊というのを出してロベスピエールに政論をさせています。しかもそのカトリーヌのおばけは、気の毒にも十八世紀のヨーロッパを股にかけて世情の混乱につけ入った大山師ドン・カグリオストクロの宴会で出て来るのよ(十八世紀をもって、世界的山師は終焉いたします)。
バルザックは、自分のそういう不思議な性格的すぽぬけを、例の大上段の云いまわしで、神秘を感じずにいられない程強い精神と称しています。こじつけながら一面の真実ですね、何故なら、彼は少くともすぽぬけを直感して神秘につかまらずにはいられない高さ迄は、人間喜劇[#「人間喜劇」に傍点]の柱をのぼりつめたのですから。
この人間喜劇[#「喜劇」に傍点]ということばも、おっしゃるとおりと思います。コメディアというものの内容の性質は、時代との関係で大したものね。シェイクスピアが悲劇をああいう形でかき、喜劇をああいう風に笑劇、ファースの要素を多くかいたということは、エリザベスの時代の鏡です。モリエールが悲劇として書かず、喜劇としてあれだけのものをかいた神
前へ
次へ
全179ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング