ろうかと想像したとき、何だか索然たるものを感じるような人に対しては、もとのように渾心で向わないの、剣法がすこし分って、いつも重心は自分の内におくことにしているの。ですから。同情もいたします、でも、腑に落ちないところは腑に落ちかねて。二人のひとが保険外交員でなくて、私も作家ならやはりそういうわけでしょう。
 八時すぎて夕飯たべました。ひとに出す御飯がないのよ。来たひとも気の毒ですが。
 其から太郎がせがむので二階へ臥かせて、話してやって、手紙かこうとしたら、疲れすぎを感じ、きょうにまわしました。
 あの叢書が買えなかったことを、私は天のお告げとうけとったのよ、凄いでしょう。お前のよむべきものを先ずよみなさい、そういうお告とうけとって、成程ねと感じ従順にうけとり、きょうは、大分歯抜けになった本棚を大体整理いたしました。
 ちがった形でいいことがあったわけです。
 去年の同じ日は大した月夜でした。そして、今よみかえしてみると思いあまった言葉足らずの詩をつくりました。まだ一人歩きが全く出来ず門外不出の生活で。
 一年経って、一日のくらしかたを思いくらべると、丈夫になったし其にすべてが私として常態に近づき、詩をつくらないで、あれこれそういう経験をしたことを面白く感じます。
 あなたも同じにお感じになりやはり一種の感興をお覚えになるでしょう? 詩をかかない私の方が安心なのよ、ね。たっぷりの詩をもっていて、いわば詩の裡にあって、詩はかかないでいる、面白さ。そういう散文の中にどれだけの詩が照り栄えていることでしょう、私はそういう散文家になりたいし、其が好きです。アランは、どうかしていてね、散文のそういう高さ、精神を知らないのよ。勿体ぶって、詩は現実から立ち上って歌うが散文はその中を走り廻るにすぎないと云っています。気の毒な男! フランスの思想界がアランぐらいのひとを選手としているということについて、大いに考えさせられます。二十世紀に入ってフランスのみならず例外をのぞいた国々は、散文の精神の力を喪って、散文は神経繊維か、思索の結晶作用の過程を示すようなもの(ヴァレリーの文章)になってしまったようです。
 文学が筆舌的なものと化する堕落についても新しく感じました。いつぞやのお手紙に、筆舌の徒となっては云々とあり、私はひどいなと思ったのよ。でも筆舌的なものと、文学的なものと、どっちにもポ
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