ったわけで、いろいろこまかいことで、可哀そうだと思うし、大局的に寿はそれで世間並のことを覚え、生活力も身につけるのです。よく変れる側が、人間学から云って大いなる利益を蒙って居ります。
 この間うち、『スペイン文化史概観』という仏人のかいた(一九三七)ものですが、よんでいて、昨夜[#「昨夜」は底本では「作夜」]よみ終り、いろいろ深く感じました。これはスペインの一九三五年までの新しい希望とその実現の時代に及び、一九三五年以降の混乱によって再びその美しい向上の試みがこわされる頃までを、統一(中世の終)から書いたものです。小冊子で、不充分だけれ共、わたし達が所謂スペイン風として異国趣味で誇張して珍しがっているすべてが、スペインにとっては誇よりは寧ろ悲劇であるということを知って慙愧を感じます。日本について、大部分の外国人の評価が、赤面ものであるように、スペインにとって、世界の人々がもつ興味の角度は、心ある精神に、名状出来ない思いを抱かせるでしょう。しかし、日本文学の代表を、いつも万葉と源氏において、恥しさを感じない人があるように、レオナルドを今日もあげるしかない貧弱さを感じるイタリー人が少いように、スペインにもそういう感じの人々が十分どっさりいないために、文化のそういう無力さのために、あの国の悲劇はくりかえされるのですね。
 この小冊子が面白いもう一つは、スペインのジェスイット派(ロヨラの派)が、どんな暗い情熱で専横を極めたかということ、一般にキリスト教が、スペインではスペインを興隆させず第三流国に堕すに活溌な作用を与えた点です。信長の時代日本に渡来したジェスイットは、西欧の宗教改革によって失った地盤を求めるためと、黄金探求の慾望と二つから来たのですが、スペインのキリスト教は、スペインがムーア人に支配され、それを奪いかえすために一役買ったキリスト教徒のおかげで、僧院だらけ、坊主政治おそろしい始末になって、今日の貧乏と無智と当途ない情熱のために、短刀さわぎをおこす情熱的[#「情熱的」に傍点]民族となってしまったのであったのね。
 わたしはふるくから日本における切支丹文化に興味をもち、芥川の「きりしとほろ」とはちがったものを直覚していたのですが、当がなくて来ました。この小冊子は何かどっさりのヒントを与えるようです。キリシタン文化については、いつも新村出や幸田成友や、考証家歴史家さ
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