ユーゴーのこういうロマンティシズムを見ると、絵の方がまだましのようにさえ思います。そしてフローベルの出たのが分るわ。フローベルは、ユーゴーに立腹したのね、そして、「ボバリー夫人」をかいたのですね、そして、あのつまらない「サランボー」をかいたのだと思います。ユーゴーが曲芸風に腕をふるので、フローベルはむっとして下を向いて、俺の皿は素焼だそれで人間は食って生きているのだ、と力んだのね、フランスの自然主義の根は、ロマンティシズムの大さと比例して居ります。田山花袋の間口二間ほどのナチュラリズムは何と果敢《はか》なくて、無邪気で、無伝統でしょう。フランス文学、イギリス文学が明治の初めに入って来たということについては、地元の文学的うんちく[#「うんちく」に傍点]の歴史がよくよくかみこなされなければ、其の日本的風土化もつまりは分らないでしょう。バルザックの偉大さ、というより博大さ、は本当に歴史を理解する力によってでなければつかまれきれません、それはバルザックの博大さというよりも、むしろフランス史の博大さですから。バルザックの小説が私たち作家にとっての興味のポイントは、人間関係の状況と性格との関係にあらわれる特色です。これはこの前私がバルザックについて素描的勉強をしたときには分らなかった点で、同時に十九世紀文学とのちがい、スタンダールとのちがいを示すものだと思います。バルザックの小説では状況シチュエーションが性格をめざめさせ動かし、後の人々の作品は、其ほど社会に強烈なシチュエーションがかくれて、性格がものを云い、自己廻転をはじめ、大戦前後の自己分裂に来ています。バルザックが歴史小説から現代小説に入って行ったのも面白いし、ドイツの小説の道と並べたら更に面白いでしょう。私はまだドイツ小説は貧弱にしか知りません。漠然と、ウェルテルとリュシアン(幻滅)の二人の主人公の歩きかたの相違を文学的本質に通じるものとして感じますが。追々こういうようにしてすこししっかり世界文学をものにしてゆきたいものです。それにしては私の語学が全く何の足しにもなりませんが。語学の力にたよらずに、外国文学も或程度正しく本質を理解したいと思えば、しなければならない勉強というものは分っているわけで、私は自分の読書力が、もっと四通八達であったら、どんなに楽だと思うでしょう。これは教育がよくなかったのよ、私が余り体育のことに無
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