行く様子です。想像出来ないようでしょう?
 文庫が数冊あれば食べてゆけたと云った時代、M・Yのように金持にまで成った男は呆然として消え去る財源を見守るでしょう。作家がちゃんとした仕事をして、ちゃんと暮せると云うのは理の当然だけれども、作家になって成り上ると云うのも何だか少し変な気がするわね。作家となれば金の使いかたもいくらか普通とは違った道がありそうに思えるけれども、いざ持ってみると誰でも買うようなものを買って、しまいには家や地べたでも買っておさまるのは奇妙なものね。どうせそうなるなら、始めから金を目当てに何かやった方が良さそうにさえ思えます。そうゆかない所が人間の面白さ、くだらなさ、気の毒さなのかもしれないけれど。人間の新陳代謝の速力は意外にも早いのね。役に立つのは、十年前後と云うような人々の生涯もあるのですね。そんな風に、色々なものから消耗されるのですね。消耗なしに樹木でさえも育てないと云うのは、自然のきびしい姿です。
 今日これに追かけて、一寸した送りものを差上げます。
 どの部屋も同じような寒さだから、かえって今年は風邪をひく者が少なくて笑って居ります。

 二月八日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

   月明のうた。

 月がのぼった。
 金星を美しくしたがえて
 梍《さいかち》の梢を高く
 屋根屋根を低く照しつつ。

 どの家もおとなしく雨戸をしめ
 ひっそり
 甍《いらか》に月光をうけている。

 なかに ただ一つ
 我が窓ばかりは
 つたえたい何の思いがあるからか
 月に向って精一杯
 小さな障子をあけている。

 いよいよ蒼み 耀きまさり
 月も得堪えぬ如く
 そそぐ そそぐ わたしの窓へ
 満々として 抑えかねたその光を

 ああ今宵
 月は何たる生きものだろう

 わたしは燦《きらめ》きの流れから
 やっとわが身をひき離し
 部屋へ逃げこみ襖をしめる
 こんないのちの氾濫は
 見も知らないという振りで。

 けれど
 閉めた襖の面をうって
 なお燦々とふりそそぐ 光の音は
 声ともなって私をとらえる

 月の隈なさを
 はじめてわたしにおしえたその声が
 今また そこにあるかのよう。

  一月二十三日

 二月十九日 (消印)〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(代筆 封書)〕

 二月十七日
 十六日の御手紙ありがとう。
 去年の二月十三日には、そちらではパイナップルの鑵を開けて、私の誕生日をお祝い下さったそうですが、今年は何の鑵があったのでしょう。みんなのなかで暮しているからと、御放念だったでしょうか。いずれにせよ私は、あなたから色々のお祝を戴きためてあるから、その日になってにわかにがっつくこともありません。
 十三日は、生れて始めてこんな風に誕生日を祝ってもらったとびっくりするようにしてくれました。
 お客様の数は、目白のお医者夫妻とペンさんと位のものでしたが、食堂のテーブルは珍しく白いテーブルクロースに覆われて、その真中には菜の花や、マーガレットが撒かれ、食器台の上には桃色の飾り笠をつけた燭台が二つ立っていて、これまた珍しく緑色のお酒の入れられた切子《キリコ》の瓶が立って、それはお祝の鐘の鳴る小さい鐘楼のようでした。真中の所に私の椅子がおいてあって、其処に贈物が積んでありました。この頃みんなでして遊ぶダイヤモンドゲームを太郎から。面白い染の袋があって、その上の箱を開けたら、内から気の利いた切符入れと、綺麗な羽織の紐と、からたちの模様のテーブル・センター。さらにいじらしいことには、小さい小さいのし紙を胸《ムネ》に下げて、そこに「アッコオバチャン」「ヤスコ」と書いた一寸ほどのもんぺをはいたコケシ人形が現れました。そのコケシの後つきは全く泰子そっくりで、可愛いこともかわいいし、第一こんなに自分は何一つしないで、飾ったテーブルに座らせられると云うようなことは初めてだから、嬉しくて、少しひどくうれしくて、何となく涙が出たいようになり、でも、私が涙をこぼしたら、みんなはきっとそんなに私が喜ぶことをかえって気の毒に思うだろうと思って、あんまりうれしくて恥しい恥しいと云って気持を自分で持かえました。みんなは、生れかわって一つの人にしては発育が良いとほめて、お杯をあげてくれました。その杯のひとくみの中の一つが、私達御秘蔵の真丸のもので、そのつれの杯をあげながら、私は、あのまん丸の杯が、矢張りキラキラ光りながら私のために上げられているのを感じました。
 お杯と云えば、さもお酒を飲んだようで、心配なさるといけないけれど、それは、全くお祝の心と色彩効果のためで、アアチャンもいぶし鮭の切身や、あやしげな数ノ子位しかないテーブルの上を、せめて賑わすためには、色だけでも鮮かな緑の液体を持出したわけです。
 この晩は幸せに暖かくて、火無しの部屋も今日のようには寒くなかったから、みんなものんびり寛いで、太郎が張り切って四角い口を開いて軍艦遊びの新型を説明するのをききました。
 思いがけない友達が、ちゃんと私の誕生日を覚えていて、私の世話で『シャロット・ブロンテ伝』が出版されたお礼だと云って、わざわざ贈物を持って午後に来てくれたりしました。こんなに良い誕生日を祝ってもらうには、並大抵なことではなくて、矢っ張り、一ぺん死んだだけのことはあると、みんなが笑いました。そうしたらね、太郎はよほど感ずる処があったとみえて、次の日みんなの居るとき、真面目くさって「アッコオバチャン、今年の夏も病気するといいね、みんなが水瓜を持って来てくれるから。」と云いました。苦笑おくあたわず、私曰く、「病気はもう御免だね、病気なしでも少し水瓜があるようにしようよ」と。手近かな推論には恐縮しました。全く記録的な祝われぶりでした。
 オリザビトンは、本当に利くようです。それに、今家では病人揃いで、国男さんも変に工合が悪がって居るし、アアチャンは軽い腎盂炎だし、スエ子は例の通りだし、こぞりてメタボリンを服むから、せめて私が、別の物のんでいてやっと補給がつきます。今、薬が利くようにもなっているのでしょう。
 十日のお手紙への返事、おっしゃった人にはすぐお礼を出しておきました。やがて夫婦で南へ赴任するでしょう。色々の用事はペンさんに頼んだりして居りますから大丈夫です。『廿日ねずみと人間』は、近いうちに見付かりそうです。富雄さんの本が着いて、ようございました。今、杭州の師団司令部の経理部にいるそうで、危いことがなくて結構だけれども、戦地に於けるこう云う部門は、金持の息子と要領のよい人間の溜り場所だそうだから、その意味では決していい場所と云えないのでしょう。前方で多くの人が生死の間を往来しているとき、こういう所では色々なことを見ききしていて、それを正しい判断に照して全体から真面目にみるだけの人物は、十人のうち何人でしょう。隆治さんのことを思いやります。
 チェホフは、病気のためクリミヤのヤルタに暮していなければならず、クニッペルは芝居でモスクヴァ、レーニングラード暮しで、厳冬の時期になると、チェホフはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]に出て一緒にくらした様子です。
 チェホフは、クニッペルのいい素質と、同時に身に付けている所謂女優らしさをはっきり見ていて、大向うの喝采や、新聞の批評や、花たばの数などに敏感なのをはっきりたしなめて、いつも彼女が自分を掴んでいるように、自分の演技を持つようにと励ましているのを読んだことがあります。チェホフはクニッペルをいつも「私の可愛い馬さん」と呼んで手紙に書いているけれど、その本にもそんな風に書かれて居りますか。チェホフは、人間の程度の差からクニッペルに対して随分甘やかした表現もしているけれども、芝居のこととなればなかなか厳しくて、よしんばクニッペルが内心おだやかならず、人の花輪を横目でみたとしても、旦那さんに手紙を書くときは、流石《さすが》に真先きにそのことは書けず、自分として何処まで突込んで演じられたかと云う点から自省しなければならなかったでしょう。それは彼女に大変ためになっていました。チェホフが亡くなって後、彼女はどんなにその教訓を生かして自分を高めてゆけたかと云うことに就ては知りません。芸術座で見た頃の彼女はひどく平凡でした。
 ヤルタのチェホフの家は、南欧風の窓があって、庭もひろく、机の上には、象牙の象が幾つも並んでいました。いろんな写真がどっさりあって、細々とした感じの書斎でした。彼の生れたタガンローグの町は、アゾフ海のそばで、ロストフのそばで、其処にある家はいかにも小さな屋台店の持主らしい、つつましい四角い小家でした。黒海をゆっくり渡って、ヤルタへ上陸して、耳にネムの花を差して、赤いトルコ帽をかぶったダッタンの少年がロバを追って行く景色などを見ると、この辺が古い文化の土地でギリシャや、ルーマニアの影響をもっていることを感じました。山の方に行くとダッタン人の部落があって、せまい石の段のある坂道の左右に、清水の湧く、葡萄棚の茂ったダッタン人の家があります。日焼けした体に、桃色のシャツを着た若い者などは、いかにも絵画的です。ヤルタから、セバストーポリまでは、黒海の海岸ぞいのドライヴ・ウエイで、その眺望は極めて印象に強く残ります。黒海という名のあるだけ、この海は紺碧で、古い岩は日光に色々に光って松が茂り、そのかげには中世の古城が博物館となっていました。セバストーポリの町に入る手前に街道が急カーヴしている処があって、其処に一つ大理石のアーチが立っています。ヤルタの方から来るとそのアーチは、まるで天の門のように青空をくぎって立って居り、其処をくぐってセバストーポリの古戦場の曠野の方からそっちをふり返ると、同じように道は見えず、四角いアーチが空に立っていて、その感じは実に独特でした。不思議な哀愁を誘います。セバストーポリもヴェルダンも遠い彼方に山々が連って、まわりは広茫とした平野で、新市街はずっとその先にあります。ヴェルダンなどは全く「白い町」で、今日生きている人の住んでいる処と云えば、小さい川っぷちや、停車場前のほんの一つかみのものです。あとは無限に広く、暗く、寂寞のうちにあります。バクーから黒海岸へ出る夜汽車の中で頭に羊皮帽をのせた人達が手ばたきをして歌を唱い、一人が車室のランプの下で踊っていたのも思い出します。スターリングラードのホテルも思い出します。その道も。波止場も。ハリコフの賑かな小ロシア風な町の様子も。
 日に直接あたらないようにと云う御注意、ありがとう。樹木の少ない高原や、眺望の広すぎる処は、目に悪いと考えていましたけれど、本当に春さきの日に、呑気に照されて、またひっくりかえったら大変ね。人より早く「吾は傘をさそうぞ」と云うわけね。たかちゃんのことに就ても色々考えます。そのことも御相談しようと思ったけれど、今日は予定外の話になって長くなったから、またこの次ね。風邪をひくなと云って下さったけれど、もうひいてしまったわ。あなたはどうぞ御大切に。

 二月二十四日 〔巣鴨拘置所の顕治宛 駒込林町より(封書)〕

 二十日づけのお手紙ありがとう。十三日にはやっぱり好物ボンボンのこと思い出していて下さいましたね、ありがとう。
 冴えかえった春寒でペンさんが病気になり、とりあえずこんな手紙さしあげます。衛生学のこと、きけずにいるので御返事出来ず御免なさい。
 今お目にかけたいものがあって例の如くポツリポツリと書いて居ります。この節は少し外があるきたくて、この寒さがすぎたら先ず手はじめに動坂のばら新でも見に行こうとたのしみにして居ります。電車にのる稽古もいたします。のりものへは一人でのることはしませんから御心配ないように。
 隆治さんからハガキが来てうれしゅうございます。マライです。マライ語の本注文しましたから、来たら又お茶や薬やと一緒に送りましょうね。消しだらけのハガキですけれども、無事でともかく着いたとわかって本当にうれしいと思います。写真立派な顔でしょう?
 何ごとかを生きて来た人間の立派な
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